宇治川の先陣争い | |||||||||
平等院鳳凰堂 平成17年元旦撮影 |
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先陣争いに勝利した佐々木四郎高綱と名馬生食(いけづき) この画像は、 東京都台東区松が谷2−14−1 矢先稲荷神社 のホームページから、許可を受けてコピーしたものです。 |
宇治川先陣之碑 宇治市宇治蓮華 交通機関 京阪宇治線「宇治」下車10分 宇治川の中州「橘の小島」に建立されています。 (枚方市 重田氏撮影) |
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宇治川の春 遡ると瀬田川から、源流の琵琶湖へ通じています。 (枚方市 重田氏撮影) |
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戦いの勝敗を決する”先陣争い” 戦いの緒戦は、両軍がにらみ合いながら対峙し、互いに敵陣めがけて遠矢を射ち合う中、味方の先頭を切って、敵陣に駆け込む事を”先陣を切る”と申します。味方の軍勢は、これをきっかけに、一斉に敵の陣地へなだれ込むのです。ですから、先陣を切る事は、戦いの勝敗を決する大きな要素となります。敵陣が放つ矢が雨霰と飛んでくる中を、駆け入る訳ですから、まさに命懸けの行為ですが、戦いに勝てば、先陣を切った者は、一番の功労者として、莫大な恩賞と、名誉を手にすることが出来るのです。 物語では、佐々木高綱と梶原景季が宇治川の先陣を競った訳ですが、その評価は、流暢な弁舌と鮮やかな手綱さばきにて、先陣を切った佐々木を褒め称える人と、小細工を労した佐々木を非難する人とに二分されます。この物語は、コミカルなタッチで語られていますが、内容の捉え方によって、様々に考えさせられる要素を含んでいるのです。 |
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佐々木四郎高綱の先祖(近江源氏)について 平家の權勢に諛は不之故、相傳の地佐々木庄を徳替される之間、子息等を相率い、秀衡 「秀義の姨母の夫也」を恃み、 奥州に赴き相摸國に至る之刻。澁谷庄司重國、秀義の勇敢に感ずる之餘り、 之を留め置か令める之間。當國(伊豆の国)に住まい既に二十年を送り畢んぬ。此の間、子息定綱盛綱等に於て者、 武衛之門下于候う所也。” (鎌倉歴史散策@加藤塾別館、”吾妻鏡入門”から、許可を得て転載しました。) |
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梶原源太景季(かじわらげんた・かげすえ)の横顔: 1180年、平家打倒を旗印に蜂起した源頼朝でしたが、豪雨のために兵が集まらず石橋山の戦いでは大敗を喫して、窮地に陥りました。探索にあたった平家の武将・梶原平三景時は、洞窟に隠れている頼朝を発見しましたが、これを見逃して恩を売り、後に頼朝の武門に下ったのです。その長男が梶原源太・景季です。 元々は平家の流れを汲む家系ですが、弟の景高や景茂と共に源氏に付きました。頼朝から絶大なる信頼を受けて、後に義経追討のための奥州征伐にまで、頼朝に従って従軍しています。 今回の”宇治川先陣争い”では、言葉巧みな佐々木四郎・高綱に完敗しましたが、一の谷の戦いでは、敵陣深く討ち入って勇敢に戦う若武者らしい働きをします。生田の森では、”箙(えびら)の梅”で有名なように、源氏にあっては珍しく風流を愛し、和歌もたしなみます。(詳細は”箙の梅”、参照のこと) しかし、鎌倉幕府成立後、1199年に頼朝が亡くなって、後ろ盾を無くした梶原家は、他の武将達から嫌われて鎌倉を追われ、駿府・清見が関で、追討軍の手で討ち取られて、無念な最期を遂げました。 |
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下巻 第九 一「小朝拝の事」 二「宇治川の事」 |
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同じき正月十一日、木曽左馬頭義仲、院参して、平家追討の為に、西国へ発向すべき由奏聞す。 同じき十三日、すでに門出すと聞こえしかば、鎌倉の前の右兵衛佐頼朝、木曽が狼藉静めんと、範頼・義経を先として、数万騎の軍兵をさし上せられけるが、すでに美嚢国伊勢国にも着くと聞こえしかば、木曽、大きに驚き、宇治・瀬田の橋を引いて、軍兵どもを分かち遣す。折ふし、勢こそなかりけれ。 先づ瀬田の橋へは大手なればとて、今井四郎兼平、八百余騎にてさし遣す。宇治橋へは、仁科・高梨・山田次郎、五百余騎で遣しけり。 |
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あらすじ その1 | |||||||||
平家は、寿永3年の正月を、讃岐の国・屋島の磯にて迎えました。年の初めなれども、元旦の小朝拝も行われず、主上(安徳天皇)は御出ましになりましたが、節会(せちえ)も四方拝も有りません。勿論、吉野からの年始もなし、 「世が乱れているとは申せ、去年の都の正月は、これ程、淋しくはなかりしものを」と、口々に言い合いました。 初日が春を告げて、浦を吹く風が、柔らかに感じられ、日差しものどかになりましたが、平家の人々の心は、まるで氷にとじこめられた心地して、西方に住む寒苦鳥(かんくどり)の様です。都では春になると、柳の芽や、梅の花の便りが、あちこちから、時を違えて聞こえてきたものでした。 花の朝や月の夜に催された、詩歌・管弦・蹴鞠・扇合わせ等の昔の思い出を語り合いながら、長き日を、船上にて送る平家の人々こそ、誠に哀れです。 正月11日、木曽義仲は、屋島の平家軍が次第に力を盛り返して、摂津の国に迫り来るのを追討せんと、院に申し出ました。 同じく13日、木曽が出立せんとした時、鎌倉の前兵衛佐頼朝が木曽の狼藉鎮めんとして義経以下、数万騎の軍兵を発進させ、すでに美濃国・伊勢国まで押し寄せたと聞くに及んで、木曽は多いに驚き、慌てて出発を差し止めて、宇治・勢田の橋板を引き剥がし、瀬田は大手なればとて、今井勢800を、宇治橋へは仁科外500余騎を差し向けました。 その頃、鎌倉では、頼朝公が、”生食(いけづき)”・”磨墨(するすみ)”と申す、名の聞こえたる2頭の駿馬をお持ちでした。戦いに向かう梶原源太景季は、その内の一頭、”生食”が、どうしても欲しくてなりません。頼朝公に懇願しましたが、 「これは、事が有れば、頼朝が乗るべき馬なり」と申して代わりに、「これも劣らぬ名馬ぞ」と、”磨墨”を賜りました。 ところが、暫くして、別れを告げに来た近江の住人・佐々木四郎高綱に、頼朝公、何を思われたか、 「皆が欲しがるこの生食を、そなたに与えん。その旨心得よ」とて、佐々木に賜ったのです。 「この馬にて、宇治川(写真)を真っ先に渡って見せましょう。もし、死んだと聞かれたなら、人に先を越されたと思し召されい」と、これを貰い受けました。これに打ち乗り颯爽と出陣する佐々木を見送った回りの者は、「大きな口を叩く者かな」と、囁き合いました。 各々鎌倉を立って、足柄を越える者あり、箱根にかかる勢あり、思い思いに上りました。そんな中にも、先に出立した梶原は、駿河の国に留まって、高所から、続々と上り来る馬の群を眺めていましたが、さすがに、「磨墨」に勝る馬は見当たりません。 「梶原が賜ったるこの磨墨に、優る馬は見当たらぬは」とて、すっかり嬉しくなった梶原でしたが、ふと見ると、金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いて、小房の鞦(しりがい)を付けた、白轡(くつわ)の馬が、数多の舎人(とねり)を引き摺りながら、なおも踊らんばかりの態にて、現われ出でたのです。 「あれは、もしや・・・」 それはまさしく、昨日、頼朝公に拝領を断られた”生食”に、間違い有りません。梶原つっと寄って、 「これは誰が馬ぞ」、 「佐々木殿です」、 「佐々木三郎か、四郎か」、 「四郎殿です」、と聞いて、”生食”をやり過ごした梶原、 「これは安からぬ。同じ様に召し使われしこの景季を、佐々木ごときより軽くあしらわれるとは、遺恨の次第なれ。今度の戦さには、先陣切って京都に馳せ上り、木曽殿の四天王と噂の高き、今井・樋口・楯・根井と組み打ちして死のうか、それとも、西海にいる強者揃いの平家の侍共と戦さして死のうと思っていたが、殿のあの御気色では、それも詮無い事。 殿がその気ならば、ここにて佐々木を待ち受け、取っ組み差し違えて、良き侍二人を失わせ、鎌倉殿に損をさせん」等と、ぶつぶつと呟きながら、今や遅しと、佐々木を待ち受けました。 そんなこととは露知らず、のんびりと佐々木がやって来ました。梶原、押し並べて組もうか、いきなり投げ飛ばそうかと思いましたが、先ずは言葉をとて、はやる気持ちを抑えつつ、 「いかに佐々木殿、あの生食をば、如何して賜った」と、殺気だって返答を迫りました。そこはさすがに佐々木殿、咄嗟に今朝程の、頼朝公の言葉を思い出して、 「されば、その事よ。この度の戦いにては、定めて宇治・瀬田の橋は外されて渡れまい。さりとて、乗って河を渡す馬も無し。生食(いけづき)を賜らんと思ったが、貴殿が所望したのに断られたと聞いて、貴殿に許されなかったものを、この景季ごときに賜るはずもなし、そこで後日、勘当あらばあれと、昨夜、舎人(注1)と示し合わせて、殿が秘蔵の生食を盗み出して来たのよ、梶原殿」、梶原これを聞いて、 「なんだ、それは忌々しい、ワシも盗めば良かった」と、先程の腹立ちも忘れて、思わず笑い転げるのでした。 佐々木の賜りしこの生食(いけづき)と申すは、黒栗毛で太くて逞しいが、馬にも人にも噛みつけば、生食と名付けられた8寸の馬との事です。また、梶原の賜った馬も、極めて逞しく、墨のように黒くて、磨墨(するすみ)と名付けられました。いずれも劣らぬ名馬です。 (注1) 舎人(とねり)・・・天皇の雑事を司る人。牛車の口取り。牛飼い。 |
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あらすじ その2 | |||||||||
東国から攻め上る軍勢は、尾張にて二手に分かれ、大手の大将軍・蒲御曹司範頼以下、総勢3万5戦余騎が、近江の国 野路・篠原(いずれも滋賀県の地名)に陣取りました。一方、搦め手の九郎御曹司義経ら、都合2万5戦余騎は、宇治橋の袂に寄せました。木曽軍は都への侵攻を妨げんと、瀬田も宇治も橋板を外して、川底には大縄を張り逆茂木(注1)を立て、対峙して居ります。 頃は1月20日余り、比良・志賀の山々の雪が解け出して、宇治川の水は、増水して流れも速く、白波が逆巻いています。夜がほのぼのと明ければ、河霧深く立ち込めて、馬も鎧も定かには見えません。 御曹司義経(注2)は川面を見ながら、皆の心を測らんと思われたのでしょう、 「淀・一口(いもあらい・現在の八幡市・写真下)へ向うべきや、河内路へ回るべき、それとも、水の落ち足の弱まるのを待つべきか、如何がせん」と、申す所に、武蔵の住人にて、当年21才になる畠山庄司郎重忠が進み出て、 「宇治川のうわさは、鎌倉でもよく聞いておりますれば、思いも掛けぬ川や海が、突然現われた訳でもありませぬ。この川は琵琶湖を源としておれば、時を経ても、水が干く事は、予も有りますまい。さりとて、橋を架ける者が何処に居ましょうや。 治承の合戦に、弱冠17歳の足利又太郎(注3)が押し渡ったこの川、まさか彼とて鬼神とも思われず、渡れぬはずは有りませぬ。試みに拙者が瀬踏みして見ましょう」とて、500余騎の轡を並べて、まさに渡ろうとした時です。 平等院の艮(うしとら・東北の方向)、橘の小島が崎(注4)に、武者2騎が、互いに、後先になりながら現れました。佐々木高綱と梶原景季です。よそ目にはそうとも見えませんが、内々は互いを意識し有って、堪らず梶原が6間余り前へ踏み出しました。 これを見た佐々木、 「いかに梶原殿、この河は、西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えたり。締め給えや」、 梶原、「さもあらん、川中で落馬しては一大事」と、歩みを止め、腹帯を解いて締め直しました。 すると佐々木、その間に、そこを、つっと馳せ抜けて、河へさっと打ち入れました。 「謀られたか」と梶原、遅れてはならじと、佐々木の後に続きます。 梶原、「佐々木殿、功を焦って、不覚を取りなさるな。水の底に、大縄が有りますぞ。心得たまえや」、 佐々木、「さもあらん、足を取られては大変」と、太刀を抜いて、馬の足に掛かる縄を、ブツリ、ブツリと斬りつつ、さすがは生食(いけづき)・日本一の名馬です、白波騒ぐ宇治川を一文字に突っ切って、遂には対岸へ打ち上げたのです。 一方の梶原の摺墨(するすみ)は、川中から筋交いに押し流されて、はるかの川下に、打ち上げました。 その後、佐々木は、鐙(あぶみ)に踏ん張り立って、 「宇多天皇に9代の後胤(こういん・子孫のこと)、近江の住人・佐々木四郎高綱、宇治川の先陣なり」(注5)と、声高らかに、名乗りを挙げました。 二人に続いて、畠山5百余騎も、うち入れましたが、畠山は、向こう岸より山田次郎が放った矢に、馬の額を射抜かれて、やむなく馬を打ち捨て、逆巻く水の中を潜りながら、ようやく対岸に辿り着きました。彼が岸に這い上がろうとした時、彼の鎧の裾を、むんづと掴む者がいます。 「誰そ?」、 「重親」、 「大串か?」、 「そうです」、 「どうした?」、 「流れが速くて、馬を流してしまいました」と、答えました。 この者は、畠山が烏帽子親(注6)までしてやった、子飼いの郎党・大串重親です。畠山は、 「何時までも、世話のやける奴め」と言いつつ、大串の襟を掴み、よいしょとばかり、岸の上へ放り上げました。岡に上がった大串は、その場にすくっと立ち上がり、太刀を頭上にかざして、 「武蔵の住人・大串重親・宇治川の、徒歩(かち)の一番乗りなり」と、名乗りを挙げたものですから、敵も味方も、この厚かましい名乗りを聞いて、ぞっと笑いました。 その後、畠山馬を乗り換え、喚きながら駆け行きました。そこへ、魚陵の直垂(注7)に緋縅の鎧着て、連銭葦毛の馬に、金覆輪の鞍置いた武者一騎、木曽の真っ先駆けるを、 畠山、「そこを駆けるは、如何なる者ぞ、名を名乗れや」、 「木曽殿の郎等、長瀬判官代重綱」と名乗ります。畠山、今日の軍神祝はんとて、馬を押し並べると、むんづと組んで引き落とし、己が鞍に押し付けて、その首をねじきり、家来の本田次郎の馬の鞍に括り付けました。 これを始めとして、宇治橋を堅めていた木曽の兵ども、しばしは支えていましたが、東国の軍勢が皆渡って攻めかかれば、終には力及ばず、木幡山・伏見を目指して落ち行きました。一方、瀬田でも、稲毛三郎重成の働きで、木曽勢が打ち破られたのです。 (注1) 逆茂木(さかもぎ)・・・敵の侵攻を防ぐ為に、先を鋭く削いだ木を組んで立ち並べること。 (注2) 御曹司(おんぞうし)・・・貴族・武士の子息で、まだ独立していない部屋住みの者。平家の「公達」に対して、源氏は「御曹司」と呼ばれている。 (注3) 足利又太郎・・・先の宇治橋の戦いで先陣を切った若者。(上巻57話参照のこと) (注4) 橘の小島・・・宇治川には二つの中洲があって、「塔の島」と「橘が小島」が連なっています。併せて「中の島」とも言われており、先陣の碑は{橘の小島}に建立されています。2人が轡を並べた「橘の小島が崎」とは、場所が違うような気がします。 (注5) 宇多天皇に9代の後胤、近江の住人・佐々木四郎高綱・・・・弟9代宇多天皇(887−897)の時代、源氏の姓を賜って下野し、現在の滋賀県を所領しました。従って、頼朝ら”清和源氏”とは出処を異にし、”宇多源氏”と申します。その故か、滋賀県には現在でも佐々木姓が、散在しています。 (注6) 烏帽子親(えぼしおや)・・・13歳にて元服(成人)した者に、その証として烏帽子をかぶせる人。以後、親代わりとなって、面倒を見ます。 (注7) 魚陵の直垂(ぎょりょうのひたたれ)・・・波に魚の模様のある綾織物で作った武家の衣服。 |
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八幡市 木津川沿いの桜並木 |
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源九郎義経に従った武者(宇治川河畔) | 蒲冠者範頼に従った武者(瀬田方面) | ||||||||
安田 三郎 大内 太郎 | 武田 太郎 加賀 美次郎 | ||||||||
畠山庄司次郎重忠 梶原源太景季 | 一条 次郎 板垣 三郎 | ||||||||
佐々木四郎高綱 糟谷 籐太 | 稲毛 三郎 榛谷 四郎 | ||||||||
渋谷 右馬允 平山 武者所 | 熊谷次郎直実 猪俣 子平六 | ||||||||
総勢2万5千余騎 | 総勢3万5千余騎 | ||||||||
(注)蒲冠者範頼というのは、遠州池田宿で、源義朝が遊女に産ませた、頼朝の義理の弟で、頼朝が挙兵したのを聞いて、義経と同様に、馳せ参じたものです。物語では、突然一方の大将として、登場しますが、彼についての具体的な説明は、全くありません。徒然草の中で、吉田兼好も、平家物語では、範頼に関する記述が全く無いことを、指摘しているそうです。 |
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