木曽殿最期
      
義仲寺 滋賀県大津市馬場
 交通機関 京阪大津線石場下車徒歩10分
木曽義仲公の墓

”木曽びとは 海のいかりを
 しづめかねて
 死出の山にも 入りにけるかな”

             
      西行法師

 「吾妻鏡」の記述から

 吾妻鏡は鎌倉幕府の記録書ですが、木曽義仲が近江の国・粟津にて石田次郎に討たれた時の様子が、次の様に書かれています。

 元暦元年(一一八四)正月小廿日庚戌。蒲冠者範頼、源九郎義經等武衛が御使と爲し數万騎を率ひ入洛す。是、義仲を追罸する爲也。今日、範頼勢多自り參洛し、義經は宇治路自り入る。

 木曾は三郎先生義廣、今井四郎兼平已下の軍士等以て、彼の兩道に於て防戰すと雖も、皆以て敗北す。蒲冠者、源九郎は河越太郎重頼、同じき小太郎重房、佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、澁谷庄司重國、梶原源太景季等を相具し六條殿へ馳せ參ず。仙洞を警衛奉る。此の間、一條次郎忠頼已下勇士諸方于競い走る。

遂に近江國粟津邊に於て、相摸國住人石田次郎を令て、義仲誅戮令む。

  *吾妻鏡の記事は、 鎌倉歴史散策@加藤塾別館、”吾妻鏡入門から、許可を得て登載しました。

下巻 第九 四「木曽の最期の事」 その2
 
 木曽殿今井四郎ただ主従二騎になって、云いひけるは「日来は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」と、云へば、今井四郎申しけるは、「御身も未だ疲れさせ給ひ候はず。御馬も弱り候はず。何によって、一領の着背長を俄に重うは思し召され候ふべき。

 それは、御方に続く勢が候はねば、臆病でこそ、さは思し召し候ふらめ。兼平一騎をば、余の千騎と思し召し候ふべし。ここに、射残したる矢七つ八つ候へば、しばらく防矢仕り候はん、あれに見え候ふは、粟津の松原と申し候。君は、あの松原の中へ入らせ給ひて、静かに御自害候へ」とて、と打って行く程に、又新手の武者五十騎ばかりで出で来たる。
 
あらすじ

 木曽殿、今井四郎兼平と主従2騎となって 
 「日頃、気にならない鎧が、今日は、やけに重く感じるぞ」と、力無く申します。

 今井、「殿は、まだお疲れではありませぬ。馬も元気です。なのに何故、その様な弱気な事を申されるのか。御味方が無くなって、臆病風に吹かれなされたか。私を千騎の武者と思し召して、ここに射残した矢7,8つにて、矢防ぎ致します。あれに見えるを、
粟津の松原(写真)と申します。殿は、あの松原にお入りになって、1人静かに、御自害なされませ」、と申す内に、新たな敵が現れました。

 「兼平が、しばらく防ぐ間に、殿は早く松原へ」と言うのも聞かず、
 「この義仲、六条河原にて死ぬべき所を、汝と一緒にとて、敵に後を見せて逃れてきたものを。別れて討たれんよりは、共に討ち死にせん」と、馬の鼻を並べて、敵陣へ駆け入ろうとします。 今井、急いで馬から飛び降り、主の馬の口に取り附いて、はらはらと涙を流しながら、

 「弓矢取る者は、日頃、いくら高名を立てても、最期になって不覚をとれば、折角揚げた高名に傷を付けることとなりましょう。殿も今はすっかりお疲れです。馬も疲れました。
 
 日本国に鬼神と聞こえた殿が、名も無き雑兵輩の手にかかって討たれたなどと、後の人に言われる事ほど、口惜しいことはありますまい。されば、只理を曲げて、いざ、松原へお入り下され」、と申しますと、
 
 木曽殿、「兼平さらばじゃ」とて、ただ一騎、粟津の松原へ駒を進めたのです。

 殿の行方を見届け、取って返した今井兼平は、馬の背から大音声を揚げて、
 「木曽殿の乳母子・今井四郎兼平33才、鎌倉殿もよく知りたるこの兼平の首、討ち取って頼朝殿に見参せよや」と、言うなり、矢継ぎ早に射掛けて、7,8騎を撃ち落とし、その後は太刀を抜いて、遮二無二、切って回りました。兼平が向かうところ敵無く、
 「射落とせ、射落とせ」と、散々に矢を射掛けられましたが、不思議と、手傷を負うこともありませんでした。

 一方、木曽殿は只一騎、粟津の松原目指して駆けていました。頃は正月の暮の事とて、田圃には薄氷が張っています。沼のような深い田の有ることなど、知る由もなく、さっと乗り入れた木曽殿の馬は、たちまち深みにはまり、頭まで水没してしまいました。手綱を引いて煽っても動かず、ならばとて鞭打ちますが、全く手応えがありません。

 最早これまでと馬を諦め、今井は如何にと振り返った木曽殿は、三浦の石田次郎が狙い定めて射た矢に、兜の内側を貫かれてしまったのです。

 矢傷は深し、堪らず馬上で打ち伏した木曽殿の首は、駆け付けた石田の郎党によって、たちまち掻き取られてしまいました。

 この首を太刀の先に、差し貫いて高く掲げ、
 「日本国に鬼神と聞こえし木曽殿を、石田次郎が召し取ったり」と、名乗りを挙げました。
 
 殿の御為と、懸命に戦っていた今井兼平でしたが、この名乗りを聞いて、

 「今は誰が為の戦いぞ。東国の殿腹、日本一の剛の者の死に様、とくと御覧あれ」と言いざま、太刀を口にくわえて、馬から真っ逆様に飛び降り、差し貫いて死んでいきました。


 
       
現在の打出の浜・粟津付近 滋賀県大津市打出浜
義仲が最期を遂げた粟津は、琵琶湖の内陸部、丁度、この建物の奥付近ですが、今はすっかり住宅地になって、昔の面影はありません。
 松尾芭蕉の墓(義仲寺内)
 元禄7年(1694)大阪で客死した芭蕉の遺言により此処に眠る。
 ”木曽殿と 
    背中合わせの 
        寒さかな”
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