熊谷直実と平山武者所季重
浄土宗総本山  光明寺

 西山浄土宗総本山 光明寺の概要: 京都府 長岡京市粟生 JR 「長岡京」下車 阪急バス「光明寺」下車すぐ
 

 当地は法然上人が始めて教えを説かれたところで、熊谷次郎直実(法然上人の教えに帰依し出家して、法名を「蓮生坊」と名乗りました。)は、建久2年(1198・壇ノ浦の戦いの13年後)ここに当寺を建立しました。

 法然上人の教えに帰依した直実(蓮生坊)は、馬に乗って東国へ向う時に、西方浄土におはすお釈迦様に尻を向けるのは失礼にあたると、馬の背に後ろ向きに乗ったという逸話が有りますが、それをレリーフにして、境内に設置してあります。

 秋の行楽シーズン、取分け11月中旬から12月にかけて、当寺の長い参道を埋め尽くす紅葉は必見に値します。但し、駐車場の不足と付近の道の狭さが悩みの種です。お越しになる時は、ご注意を・・・。例年なら真っ赤に染まる参道が、今年は11月下旬になっても、緑の葉っぱが数多有りました。温暖化の影響かもしれません。
                                             平成17年11月24日
     
  須磨寺内 馬上の直実
上の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。

 
http://www3.ndl.go.jp/rm/

 出家して蓮生坊を名乗った熊谷次郎直実

 

 
平家物語では、敦盛を討ち取り、武士の無情を感じて、すぐに出家したことになっていますが、実際に出家したのは、それから8年後だそうです。

 物語の中でも明らかなように、戦陣へ赴いた彼は、一人の小者(旗指し)と息子の他は家来を連れていなかった様ですから、関東の豪族といっても、最下層に属する小さな豪族だったと思われます。ですから家来の働きに期待する事は出来ず、彼が自ら大きな手柄を立てない限りは、褒賞には有り付けなかったのです。戦さの緒戦で一番讃えられるのは、先陣を切ることです。彼はそれを期待して先陣を狙ったのですが、見事に失敗しました。結局、一の谷の戦いでは、彼は誉められるべき戦功もなく、空しさばかりが残る戦いだったのではないでしょうか。

 戦いの後、国へ帰った直実は、叔父との領地争いで訴えられましたが、頼朝の前では満足に弁明することが出来ませんでした。
 自らの口べたと不甲斐なさに癇癪を起こし、「梶原めの讒言に破れたり」と、手元の書類を、頼朝目掛けて投げ付けた上、その場で太刀を抜きモトドリを切って侍を捨て出家したのです。彼が52才の時のことでした。
 しかし、彼の心の中には何時も敦盛の事があって、これを期に意を決して出家したのでしょう。何れにしても、人間味溢れる爽快な人物です。

下巻 巻九 九「一二の駆けの事」 

 六日の夜半ばかりまでは、熊谷・平山搦手にぞ候ひける。熊谷、子息の小次郎を呼うで云ひけるは、「この手は悪所であんなれば、誰先と云ふ事もあるまじきぞ。いざうれ、土肥が承って向うたる西の手へ寄せて、一ノ谷の先陣を駆けう」と云ひければ、小次郎、「この儀最もしかるべう候。誰も、かくこそ申したう候つれ。さらば、とう寄せさせ給へ」と申す。

 熊谷、「まことや、平山もこの手にあるぞかし。打込の軍好まぬ者なれば、平山が様見て参れ」とて、下人を見せに遣す。


あらすじ

 6日の夜半まで、熊谷次郎直実(じろうなおざね)と平山武者所季重(むしゃどころすえしげ)は、義経が大将を勤める搦め手の陣内に居りました。
 熊谷次郎直実が、息子の小次郎を手元に呼んで申しますには、
 
 「この断崖絶壁を駆け降りたとしても、誰が先陣か分からぬ。それよりも、土肥が攻める大手に回って、一ノ谷の先陣を駆けようではないか」、
 
 「父上の仰せ、全くその通りです。誰もがそのように思っているでしょう。早速、この陣を抜けて、大手へ寄せましょう」、
 「それにしても、平山季重も、同じ事を考えているであろう。奴が気に掛かる。奴も大勢で打ちかかる戦さは、好まぬ武者じゃ。ちょっと平山の様子を見て参れ」、

 とて、小者に平山の様子を探らせました。小者が覗いているとも知らず平山は、

  「人に知られてはならぬ。この平山季重、人に遅れは取るまいぞ」等と、何やらぶつぶつ呟きながら、抜け駆けの準備を進めております。
 
 のんびりと草をはむ馬を、「憎つき馬の長飯かな」と、叱りつける家来に平山は、
 「そんなに叱るでない。その馬との名残りも今宵限りぞ」と、声をかけておりました。

 急いで駆け戻った小者の話を聞いて、
 「そうであろう、ならば、こちらも急がねばならぬ」とて、早速、親子二人鎧兜に身を固めて馬に乗り、土肥実平が陣を敷く、一ノ谷・西木戸に向かったのです。
 
 熊谷直実が、その夜の装束には、褐(かち)の直垂(ひたたれ)に、赤革縅(あかがわおどし)の鎧着て、紅の母衣(ほろ)をかけ、権太栗毛(ごんだくりげ)と言う、名馬に乗っております。

 子息の小次郎直家は、沢潟(おもだか)を一入り摺ったる直垂に、フシ縄目の鎧着て、西楼と言う白月毛(しらつきげ)の馬に乗って、父に続きます。
(注1)

 これに従う旗指(はたさし)は、鞠塵(きじん)の直垂に、小桜の生地に黄色で描いた、紋入りの鎧着て、黄河原毛の馬に乗り、主従3騎がうち連れて、駒を進めました。谷を弓手に見ながら、人も通わぬ田井の畑の古道を抜けると、そこは、一の谷の波打ち際です。
(注2)

 一の谷の近くに、塩屋と言う所が有ります。夜半の事とて、ここに土肥勢七千余騎が控えております。熊谷親子は夜に紛れて、そこを馳せ通り、波打ち際から、平家の西木戸へと押し寄せました。
 
 その時も、夜が深くて、平家の城内は、未だ静まり返っております。熊谷が申すには、
 
 「ここは、先駆けには、一番の適所なれば、我先にと駆けつける者多かろう。、決して我等二人だけと、油断するな。もうその辺に、控えて居るやも知れぬ。
 夜明けを待っては遅すぎる、いざ、名乗りを挙げん」とて、馬の鐙を踏ん張り、寝静まった平家の城郭に向かうと、大音声を張り上げて、
 
 「武蔵の住人、熊谷次郎直実・その子小次郎直家、一ノ谷の先陣ぞや」と、名乗りを挙げました。熊谷の名乗りは、闇に包まれた平家の城郭に響き渡りましたが、ひっそりとした城郭からは、何の応答もありません。 平家の陣では、

 「よしよし、音を立てるな。あの敵の馬の足が疲れるまで待て。矢を射尽かさせよ」とて、あしらう者とて有りません。

 暫くすると、背後から武者が、旗持ちを引き連れて近付いてきます。
 「誰ぞ」、
 「季重」、
 「平山か」、
 「そうじゃ。そう言うお主は」、
 「直実じゃ」、
 
 「何時から此処にいる」、
 「宵の口より此処に」、

 「この季重も、もっと早く来るつもりであったが、かの成田五郎に謀られて
(たばかられて)かくも遅れ申した。成田が”死なば一所に”と申すによって、二人打ち連れて参る程に、”平山殿そんなに急がれるな。軍さの先駆けは、味方が後に続いて駆け入ればこそ、その高名も人に知られるものですぞ。

 数多集う敵陣へ、ただ一騎、駆け入り討死したとて、何の高名が得られましょうや”と申すによって、それも道理かなと思い、味方の勢を待つ事にしたのよ。ところが、成田め、この季重を謀って、先を駆けんとするではないか。あれが馬は我の馬より弱く見えれば、馬に一鞭当てて五,六段ばかり先を駆ける成田に一気に追い付いて、

 ”如何に成田殿、季重ほどの者を、よくも謀られたな”と一声かけて、やつを打ち捨て駆けて来たのよ。やつめ今は遥かに遅れたであろう」と、互いに話す間に、東雲(しののめ)もようやく明けました。

 そこで熊谷次郎、先程、名乗りを挙げましたが、平山にも聞かせんと思い、再び門前に駒を進めて、
 「先程名乗りたる熊谷直実・小次郎、改めて一の谷の先陣ぞや」と、二度目の名乗りを挙げました。 城内ではこれを聞て、

 「いざ、昨夜来、うるさく名乗る熊谷親子を、絡め捕って引提げて来よう」と、木戸を開き出てきたのは、越中次郎兵衛盛綱・上総五郎兵衛忠光・悪兵衛景清・後藤内定経を始め、その勢20余騎です。

 ここに平山は、滋目結の直垂に、緋縅の鎧着て、二引両の母衣をかけ、目糟毛と言う名馬に乗って、これもも負けじと、

 「保元・平治の2度の戦さに、先陣駆けて名を挙げた平山武者所季重」と、名乗りを挙げて、おめきながら駆け出します。
 
 熊谷駆ければ、平山が続き・平山駆ければ熊谷も続く、互いに我劣らじと、入れ替わり・立ち替わり、火の出るような、攻めぎ合いが始まりました。

 平家の侍ども、二人に余りに手痛く攻められて、これは叶はじと、さっと城内に駆け戻り、一斉に、矢を射掛けてきました。
 
 直実は、この矢に馬の太腹を射抜かれて、跳ね上がるものですから、弓を杖に下馬しました。子息の小次郎も、”熊谷小次郎16才”と、名乗りを挙げて、真っ先駆けていましたが、右手の肘を射抜かれ、父の元へ戻って来ます。

 「どうした小次郎、傷を負ったか」、
 「ええ、少々」、
 「鎧に隙間を作るな、兜を傾け、額を射抜かれぬな」と、我が子をさかんに気遣います。

 熊谷は、鎧に刺さった数十本の矢をかなぐり捨てて、
 「去年の冬、鎌倉を立ってこの方、この命鎌倉殿に奉り、屍を一ノ谷の汀に、曝さんと思い切ったる直実ぞ。去る室山・水島で、2度うち勝って、名を挙げた越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪兵衛景清は居らぬか。能登殿はおわさぬか。高名不覚は相手にもよるものぞ。ただ熊谷親子と組めや、組め」と、罵りました。

 城内ではこれを聞いて、越中次郎兵衛盛嗣が、好みの装束、小村濃の直垂に、赤縅の鎧着て、鍬形打ったる甲の緒を締め、金作りの太刀を帯き、24差したる切斑の矢負い、滋藤の弓を手挟んで、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて、熊谷親子に向かって、駒を寄せて来ました。

 親子も、中を裂かれじと、二人並んで太刀を額に構えながら、一歩も引かず、じわりじわりと、盛嗣との幅を寄せます。二人に迫られて盛嗣、これは叶わぬと思ったか、突然、馬を巡らして取って返そうとしました。
 
 「あれは如何に、越中次郎盛嗣ではないか。何故、我等を嫌う。組めや・返せや」と、 直実の罵りにも、「そうは参らぬ」とて、城へ帰って行きます。これを見た、上総五郎兵衛が、

 「汚し、殿ばらの振る舞い、組み討てば良いものを。敵に望まれながら組まぬ法があろうか」と、駆け出そうとする彼の鎧の袖を抑えて、越中次郎、

 「御君のために、働く機会は外にある。あんな猪武者に拘わるな」とて、思い留まらせました。

 その後、馬を乗り換え熊谷父子と平山が、縦横無尽に駆け回り、散々に敵を蹴散らしました。

 平家の方では、これを見て、
 「ただ、射落とせ、射取れ」と、下知しますが、矢を射掛けても、味方の影にて矢も当らず、
 「駒を寄せて、組めや」と、下知しますが、平家の馬は、西国に落ちて以来、ずっと船に乗せられていましたから、まるで彫り物の様に、鞭打てど動きません。
 熊谷・平山の馬は、日頃から飼い慣らした馬です。これに一当てされれば、平家の馬は、皆蹴倒されてしまい、押し並べて組む武者もいませんでした。

 その内、平山の先を駆けていた旗指しの小者が矢に当たって、死んでしまいました。平山が常日頃可愛がっていた小者です。、平山は怒りを露わにして、矢庭に城内へ駆け込み、やがて、召し取った首を、太刀に差して、駆け戻ってきました。

 熊谷は確かに、一番に名乗りを挙げましたが、城に駆け込み、敵の首を召し取ったのは、平山です。
 
こうして、熊谷・平山の、先陣争いは終わりましたが、どちらが先陣争いに勝ったのでしょうか。


(注1) ・褐(かちん)の直垂(ひたたれ)・・・絹や布製の袖括り付いた柿色の衣服。元は平民が着用していましたが、後には武家の礼服となりました。
     ・赤革縅(あかがわおどし)の鎧
・・・赤い色の皮紐で綴ったヨロイ。
     ・紅の母衣(ほろ)
・・・・・馬上で背中に付ける袋状の布。馬を走らせると、これが風をはらんで膨らみ、後からの矢を防ぐと共に、
                    敵を威嚇する効果もある。
(写真参照)
     ・沢潟(おもだか)・・・・夏に白い花を付けるおもだか科の多年草。
     ・フシ縄目の鎧
・・・・白・薄緑・紺の三色の皮紐で綴ったヨロイ。
     ・白月毛(しらつきげ)・・・・白味がっかった朱色の毛並みの馬。

(注2) ・旗指(はたさし)・・・・戦場で、大将の旗を持つ役目の武者。
     ・鞠塵(きじん)の直垂
・・・黄色味がかった薄緑の直垂。(この色は本来は、”禁色”と言って、天皇のみが使用できる色です。)
     ・黄河原毛(きかわらげ)の馬
・・・・河原毛(鬣(たてがみ)のみが黒く、総身は白い馬)の黄色がかった馬。
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