一の谷・鵯越の戦い
         
         須磨浦から一の谷を眺める。 左手の高い山(鉄拐山)の麓が一の谷です。
  

源義経と弁慶・鵯越えの坂落とし


 
逆落しに加わった、怪力自慢の畠山重忠が、愛馬が傷付くのを嫌って、背中に馬を背負い、崖を駆け降りたと言う武勇伝を、聞いたことが有りますが、この平家物語には登場しません。源平盛衰記の頃から、登場する話です。
鵯越えの今
鵯越えが何処に有ったのかは、2説があって、1説は鉄拐山の麓、もう一つは、現バイパス鵯越トンネルのあたりです。
しかし、何れにしても、一ノ谷との位置関係に疑問の残る距離にあると言うことです。なお、この写真の正面左側が一ノ谷と言われる所です。
この画像は、
 東京都台東区松が谷2−14−1 
    
矢先稲荷神社 
 のホームページから、許可を受けてコピーしたものです
.。
なお、この写真は、神戸市西区 櫛橋克治iさんの許可を得て、同人のホームページから、コピーしたものです。

 ”鵯越(ひよどりごえ)”    文部省小学唱歌(明治45年・3年生用)
 
 1、鹿も四つ足 馬も四つ足  鹿も越え行くこの坂道
        馬の越せない道理はないと  大将義経真先に
 
 2、続く勇士も一騎当千  鵯越に着いて見れば
        平家の陣屋は真下に見えて  戦さ今や真っ最中
 
 3、油断大敵 裏の山より  3千余騎のさか落しに
        平家の一門驚き慌て  屋島を指して落ちて行く


 

  「吾妻鏡」の記述から

 吾妻鏡は鎌倉幕府の記録書ですが、源九郎義経が、鵯越から平家の城郭一の谷へ攻め下って、不意を突かれた平家の公達が或いは討死し、或いは敗走する様子が、次の様に書かれています。

 元暦元年(一一八四)二月大七日丙寅。雪降る。寅尅、源九郎主先ず殊なる勇士七十餘騎を引分け、一谷の後山「鵯越と号す」于着く。爰に武藏國住人、熊谷次郎直實、平山武者所季重 等卯剋偸に、一谷之前路于廻り、海道自り舘際于競い襲ひて、源氏の先陣と爲す之由、高聲に名謁之間。飛騨三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛盛次、上總五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景C等廿三騎を引き、木戸口を開きて之と相戰う。熊谷小次郎直家疵を被り、季重の郎從夭亡す。

 其の後、蒲冠者并びに足利、秩父、三浦、鎌倉之輩等競ひ來る。源平の軍士等互いに混乱し、白旗赤旗色を交え、鬪戰の爲躰く、山を響かせ、地を動かす。?そ彼の樊?、張良と雖も、輙く敗績し難き之勢也。之に加へ、城郭石巖高く聳へ而、駒蹄通ひ難く、澗谷深幽に而、人跡已に絶えたり。

九郎主、三浦十郎義連已下の勇士を相具し、鵯越「此の山猪、鹿、兎、狐之外不通の險阻也」自り、攻め戰は被るの間、商量を失ひ敗走し、或ひは馬に策ち一谷之舘を出る。或ひは船に棹さし四國之地に赴く。爰に本三位中將「重衡」明石浦に於て景時、家國等の爲に生虜被る。越前三位「通盛」は湊河邊に到りて、源三俊綱の爲に誅戮被る。其の外、薩摩守忠度朝臣、若狭守經俊、武藏守知章、大夫敦盛、大夫業盛、越中前司盛俊以上七人者、範頼、義經等之軍中討ち取る所也。但馬前司經正、能登守教經、備中守師盛者、遠江守義定之を獲ると云々。

  *吾妻鏡の記事は、 鎌倉歴史散策@加藤塾別館、”吾妻鏡入門から、許可を得て登載しました。

 下巻 巻九 「坂落しの事」

 これを初めとして、三浦・鎌倉・秩父・足利・党には、猪俣・児玉・野井与・横山・西党・都築党、総じて私党の兵ども、源平互に乱れあひ、喚き叫ぶ声は山を響かし、馳せ違ふる馬の音は雷の如く、射違ふる矢は雨の降るに異ならず。

 或いは薄手負って戦ふ者あり、或いは引き組み刺し違へて死ぬるもあり。或いは取って押さえて首を掻くもあり、掻かれるもあり。何れ隙ありとも見えざりけり。

 あらすじ

 生田の森では、これを機に、三浦・鎌倉・秩父・足利等の関東の豪族や、
党(注1)には、猪俣・野井與・横山・西党・都筑党など、源平互いに入り乱れて、 互いの喚めき叫ぶ声が、山をゆるがし、所狭しと駆け巡る、数百騎の蹄の音が、まるで、雷の如く、地響きを立てています。

 射違える矢は、雨に異ならず、或いは薄手傷を負って、なお戦う者有り、或いは、互いに刺し違えて死ぬ者あり、或いは、首を掻く者・掻かれる者、城内のあちこちで、息付く暇もない、血みどろの戦いが、何時果てるとも無く、繰り広げられました。 しかし、源氏の大手だけでは、とても、攻め切れそうにもありません。

 一方、7日の曙に、大将軍九郎御曹司義経と、その勢三千余騎が、鵯越(ひよどりごえ)の上に、しばし人馬を休めていましたが、その軍勢に驚いたか、3匹の鹿が平家の城郭・一ノ谷へ落ちて行きました。

 平家の方の兵ども、これを見て、

 「たとえ、里近くに住む鹿とても、我等を恐れて山深くへ入るべきを、この陣へ落ち来る事こそ、これは怪しい。きっと、敵が山上から攻め落とす積もりに相違なし」等と、大騒ぎです。

 そこへ、伊予の住人・武智清秋が進み出て、
 「たとえ何者であれ、我が陣に攻め来たる者を、通すこと叶わず」と、矢庭に2匹の牡鹿を射殺し、雌鹿は逃してやりました。これを見た越中前司は、

 「せんない殿腹かな、只今の矢一筋あれば、敵の10人をも防げたものを。罪作りな事をなさるものぞ」と、制しました。

 大将軍九郎御曹司義経、山上から、眼下に広がる平家の陣を眺めていましたが、
 「この崖から、馬を落として見ん」とて、試みに、数頭を落としました。

 或いは、転びながら落ちるもの、或いは、足を折って死ぬものもあります。が、その中に鞍を置いた3頭が、平家の越中前司の仮屋の前に降りて、身震いして居りました。これを見た義経、

 「馬は、主が心得て落とせば、傷付ける事もあるまい。この義経を見本にせよ」とて、真っ先駆けて落とせば、30騎ばかりが、それに続きます。小石混じりの道無き道を、真っ逆さまに二町ばかり駆け下りますと、苔むした岩石の段に至りました。

 しかし、その下は、岩盤絶壁が、釣る瓶落しに14,5丈下っていて、先へは進めそうにも有りません。さりとて、後へ取って返す事もならず、武者達は、「これが最後か」と、一様に、落胆の色を隠せません。

 そこへ、三浦の住人佐原十郎義連が進み出て、
 「我等が三浦では、鳥一羽追うだにも、朝夕かような所を駆け巡っております。我等にとっては、これは三浦の方の馬場ぞ」とて、真っ先駆けて下りて見せますと、 大勢がみな続いて、落ちて行きました。

 後に続く者の鐙(あぶみ)が、前に駆ける者の兜に触れる程に、連なりながら、ぞくぞくと落として行きます。中には、あまりの恐ろしさに、目をつぶって駆ける者もいる程です。えいえいの掛け声は押し殺し、馬に力を付けて,落ち行きます。それは、人がなす業にあらず、まるで鬼神の仕業に見えました。
 
 こうして、平家の裏庭に降り立つが早いか、こぞって挙げた3千余騎の鬨(とき)の声は、山々に木霊して、10万余騎にも勝りました。
 
 村上判官代康国の手より火を出して、館・仮屋に次々と火が放たれました。瞬く間に燃え上がる黒煙が押し掛かりますと、平家の兵は、もしや助かるかと、前の海へ多くが走り出しました。
 
 渚には、平家の助け船が、数知れず浮かんでいましたが、近くの船に鎧着た者どもが、4,5百・千人と、乗り込むものですから、良かろうはずが有りません。3町ばかり漕ぎ出して、大船3隻が、たちまちの内に、沈んでしまいました。

 この有様を見た、他の船の兵ども、
 「良き武者ばかりを乗せよ。雑兵は乗せるな」とて、船端に取りすがる雑兵どもを太刀・長刀にて打ち払うのでした。
 
 それを知りながら、敵に遭って死ぬよりはと、乗せじとする舟に取り付き、或いは肘うち斬られ、或いは腕打ち落とされて、一ノ谷の渚は、たちまち、朱に染り、腕を無くして、のたうつ雑兵のために、埋め尽くされたということです。

 さる程に、大手にも浜にも、武蔵・相模の若武者が、脇目も振らず、命惜しまず、ここを最期と攻め寄せます。
  
 これまで数回の戦いにては、不覚を取ったためしも無かった能登守教経殿も、今回は如何が思われたのか、薄墨(うすずみ)と申す名馬に打ち乗り、西に向かって落ち行きました。そして、明石の浦から船に乗って、讃岐の屋島へ渡られたのです。



 (注1)党(とう)・・・平安後期に出来た、地域・血縁で結ばれた土着豪族の集団の事。関東には”武蔵七党”と言う、”横山党(埼玉)・野井与党(多摩、入間)・西党(多摩)・児玉党(児玉)・私市党(埼玉)・丹党(秩父)・猪俣党(武蔵)が其々結集して、各々自らの領地を守りました。また、源平合戦などには、八幡太郎義家とのよしみもあって、軍団を作り源氏方に組して出陣しました。関東にはその他、草の実党・那須七党などが有るそうです。
下巻 巻九 一二「盛俊最期の事」

 新中納言知盛の卿、生田の森の大将軍におはしけるが、東に向うて戦ひ給ふ所に、山の姐より寄せける児玉党の中より、使者を立てて、「君は一年武蔵の国司にて渡らせ給へば、そのよしみを以て、児玉の者どもが中より申し候。未だ御後をば御覧ぜられ候はぬやらん」と申しければ、新中納言以下の人々、後ろを顧み給へば、黒煙おしかかりたり。

あらすじ

 新中納言知盛卿は、生田の森の大将軍にて、東から攻め掛かって来た、範頼率いる、源氏の大手の応戦に大わらわです。これを見ていた源氏の軍団・児玉党の中より、使者が遣わされ、

 「知盛殿、貴方はその昔、我等が武蔵の国の国司であらせられたによって、そのよしみを以って、お知らせ申す。目前の敵に気を取られて、よもや後の敵を御忘れでは」と、申し送りました。

 知盛卿ら平家の武者が、後ろを振り返りますと、一ノ谷で上がった黒煙が、既に生田の森まで押し包まんと迫っています。

 「あれ、西の手は、既に破れたか」と、口々に叫ぶが早いか、平家軍は、たちまち総崩れとなって、我先にと、浜を目指して逃げ始めました。

 越中前司盛俊は山の手の侍大将ですが、東西陣営が総崩れになる中、今更逃れる事は、叶わじと思われたのか、そこに留まって居りました。それを見つけた猪俣小兵六則綱が、これぞ良き敵と目をかけ駆け付けて、轡を並べると、むんずと組んで、二人は馬の間に、どっと落ちました。

 猪俣は、八カ国にその名も聞こえた、したたか者にて、鹿の角をも引き裂く怪力無双と云われています。一方の盛俊も五,六〇人かかってやっと動く船を、一人で引く程の怪力です。力に勝る盛俊は、その猪俣を難なく、取って押さえて、身動きできなくしました。

 下になった猪俣は、太刀を抜かんとしますが、指が邪魔をして、柄も握れません。 声も出ない程に、がっちりと押さえ込まれた猪俣でしたが、さすがは大力の者です、しばらく休んで、

 「名前の分からない首を取っても、手柄にはならぬ。互いに、名を名乗ろうではないか」と申します。 

 盛俊も、「それもそうだ」と思われたか、
 「元は、平家一門に連なる、越中前司盛俊と申す。して、汝は何者ぞ、名を聞こう」、
 
 「武蔵の住人・猪俣小平六則綱と申す者なり。ところで、越中前司殿、我を助けては呉れまいか。さすれば、貴方はもとより、貴方の一門が喩え何十人おはそうとも、拙者の功名に替えて、お助け致そう」と、申しますと、
 
 「盛俊、もとは平家の一門、源氏に頼もうなどとは、思いもよらず。源氏も又、盛俊を頼もうなどとは、よもや思うまい。憎っき口を聞く奴め」、真っ赤になって怒った盛俊が、太刀を振り上げ、まさに首を切らんとした時、それを押し留めんと猪俣は、

 「情けなや、既に降参している者の、首を切ろうとなさるのか」と、また、口を聞きす。これを聞いて盛俊、
 「それもそうだ、ならば助けん」と、とうとう許してしまったのです。

  戦い疲れた二人は、前は堅田の畑、後は深き田んぼの畦に並んで腰掛け、一息付いていました。

 暫くすると、緋嚇の鎧着て、金覆輪の鞍置き、月毛の馬に乗った武者一騎、こちらへ鞭打ち馳せ来ましす。猪俣は一瞬、ギクッとした盛俊を見て、

 「あれは、日頃から、拙者が親しくしている人見四郎と言う者にて、猪俣がここに居るのを見て、伺い来るのであろう」と、口では申しながら、
 
 「あれが来からには、もう一度、組み付いてやろう。二人なら、よもや負けはすまい」と、密かに思っている所へ、間一段ばかりに馳せ来たりました。
 
 はじめは、二人の敵を用心深く、交互に見ていた盛俊でしたが、その目が、近付く人見を見定めんと、はたと見守ったその瞬間に、猪俣、両足を踏ん張って立ち上がり、盛俊の胸板を拳を固めてドンと一突きしました。

 不意を付かれた盛俊は、堪らず田の中へ、仰向けに転んでしまい、起きあがろうにも、鎧が邪魔して、ただ、手足をバタ付かせるばかりです。それに乗りかかった猪俣が、盛俊の太刀を引き抜いて、鎧を押し上げ、柄も拳も突き通れとばかりに、3太刀突き刺して、たちまち、その首も刎ねてしまったのです。

 人見に盛俊とのやり取りを見られた猪俣は、「人見に言い掛かりを付けられるのも面倒」とてか、素早く盛俊の首を太刀の先に貫き、高々と差し上げて、

 「日頃、平家の鬼神と唱われた越中前司盛俊を、武蔵の住人猪俣小平六則綱召し取ったり」と、大音声を挙げますと、その日の功名の一つに加えられました。


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