若武者無冠の太夫敦盛の最期
  須磨寺内    
      
 この画像は、 東京都台東区松が谷2−14−1 
    
矢先稲荷神社  のホームページから、許可を受けてコピーしたものです.。
 無官の太夫平敦盛の横顔

 嘉応元年(1164)に清盛の弟・平経盛の末子として生まれました。まだ官職に就いていないので、「無官」、位階は五位を賜っております。唐の位階で五位の事を「大夫(たいふ)と申します。)

 兄の経正は琵琶の名手です。(上巻第十七「青山の沙汰の事」参照のこと。)
 
 
青葉の笛(学校唱歌)
 
 ” 一ノ谷の戦さ敗れ 討たれし 平家の
  公達哀れ 暁寒し 須磨の嵐に 
  聞こえしはこれか 青葉の笛 


 
  敦盛は、この場面に始めて登場して、亡くなってしまう人物ですが、物語を読む人に、鮮烈な印象を与えます。謡曲の世界でも、多く取り上げられて、様々に、表現されているそうです。


 なお、”青葉の笛”の謂われも、謡曲の世界では、その様に呼ばれているのだそうです。
 熊谷次郎直実の横顔

 武蔵の国の住人、頼朝が挙兵した時には、平家方でしたが、他の武者同様、源氏に加担するようになりました。勇猛果敢で、短気・その上、情に脆い、典型的な板東武者です。

 今回、彼は義経に従って、出陣しましたが、組織的な戦いを基本とする、義経の戦法は、彼のお気に召さず、昔ながらの、「やあやあ遠からん者は、−−」式の、1対1の戦いが、したくてなりません。
 
 その夜、息子と共に、陣を抜け出して、一ノ谷の西木戸に回りました。先陣の功名を挙げんと、明け方に、平家の陣に向かって、名乗りを挙げましたが、相手にされず無視されて、結局先駆けは、見事失敗に終わりました。

 今度こそ功名をとて、挑んだ相手が敦盛です。直実の心中ちぢに乱れ、複雑な戦いを強いられました。それが、出家する原因にもなったのです。

 滑稽さと、空しさ、哀しみを織り交ぜた、不思議な彼の人物像が、物語を読む内に展開されます。
 幸若舞「敦盛」(こうわかまい・あつもり)について 

 織田信長が、炎上する本能寺で舞ったのは、幸若舞と言われる舞で、歌ったのは、「敦盛」の歌詞の中の
節です。
 幸若舞は、室町時代に流行した舞で、その後は衰退して、現在では、福岡県の大江という集落に残るのみと言われています。下記は、赤字の所が、信長が引用した歌の一節ですが、演目の「敦盛は」は、熊谷次郎直実が、平敦盛を討った後、彼が出家するまでを、物語としたものです。(一部を抜粋)

 ”去程に、熊谷、よくよく見てあれば、菩提の心ぞ起りける。「今月16日に、讃岐の屋島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。
思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。

 人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。 これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思ひ定め、急ぎ都に上りつゝ、敦盛の御首を見れば、もの憂さに、獄門よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧を供養し、無常の煙となし申。御骨ををつ取り首に掛け、昨日までも今日までも、人に弱気を見せじと、力を添へし白真弓、今は何にかせんとて、三つに切り折り、三本の卒塔婆と定め、浄土の橋に渡し、宿を出でて、東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り、元結切り、西へ投げ、その名を引き変へて、蓮生房と申。花の袂を墨染の、十市の里の墨衣、今きて見るぞ由なき。かくなる事も誰ゆへ、風にはもろき露の身と、消えにし人のためなれば、恨みとは更に思はれず。

 
 
   
敦盛の塚(須磨寺境内)

 
敦盛が所持していた青葉の笛(正式には”小枝”)は、祖父の忠盛が、鳥羽院から拝領したもので、父経盛が受け継ぎ、敦盛の手に渡ったものです。戦いの前夜、一ノ谷の平家の陣では、父経盛が、管弦の宴を催しました。その席で、敦盛が吹いた笛の音は、源氏の陣まで、聞こえてきたといいます。最期の戦場でさえ、管弦の宴を催した、公達の心映えが忍ばれる、悲しいお話です。なお、この青葉の笛は、須磨寺に保存されています。
彼の兄は、琵琶の名手平の経正卿です。

 青葉の笛(須磨寺博物館)


 敦盛が所持していた”小枝”(青葉の笛)を見て、熊谷次郎は出家する決意をしたのです。


 西山 光明寺  長岡京市
 西山浄土宗総本山 光明寺の概要:
 京都府 長岡京市粟生 
 JR 「長岡京」下車 阪急バス「光明寺」下車すぐ
 

 当地は法然上人が比叡山を下りられて、浄土宗の教えを始めて説かれたところと言われております。後に、法然上人の教えに帰依し出家して、法名を「蓮生坊」と名乗った熊谷次郎直実が、建久2年(1198・壇ノ浦の戦いの13年後)当寺を建立しました。
 当寺は参道をはじめ全山を彩る紅葉の美しさでは、京都でも有数の名所です。見頃は11月中旬から12月初旬まで。
 下巻 巻九 十五「敦盛最期の事」
 
 さる程に、一ノ谷の軍破れにしかば、武蔵の住人熊谷次郎直実、平家の公達、助け船に乗らんとて、渚の方へや落ち行き給ふらん、あっぱれ、よき大将軍に組まばやとて、細道にかかって渚の方へ歩ます所に、ここに練貫に鶴縫うたる直垂に、萌葱匂の鎧着て、鍬形討つたる甲の緒をしめ、金作の太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋藤の弓持ち、連銭蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて、乗ったりける者一騎、沖なる船を目にかけ、海へさつとうち入れ、五六段ばかりぞ泳がせける。

あらすじ 

 さる程に、一ノ谷の戦いに破れた平家の公達らが、沖の助け船目指して、ぞくぞくと、落ち延びて行きます。武蔵の国住人・熊谷次郎直実、”落ち行く平家勢の中の、あっ晴れ良い大将と組討ちせん”と、渚の小道を駆けていました。

 ふっと見ると、練貫に鶴をあしらった直垂に、萌葱匂の鎧着て、鍬形打ったる冑の緒を締め、金作の太刀を差して、24本入りの切斑の矢を背中に負い、滋藤の弓を小脇に抱えて、連銭蘆毛の馬に、金覆輪の鞍を置いて、
(注1)これにうち乗った武者が一騎、沖の船を目指して、海にさっと打ち入れ、五,六段ばかり泳がせております。
 
 熊谷、「あれは如何に、よき大将軍と見受けたり。見苦しきかな、敵に後ろを見せるとは。返えさせ給えや」と、扇をあげて差し招きました。
(写真)

 招かれた武者が取って返して、渚へ上がらんとする所へ、熊谷、波打ち際に馬を押し並べて、むんずと組むと、二人は二頭の馬の間にどっと落ちました。熊谷が武者を取って押さえて、その首掻かんと、甲を押し上げて見ますと、薄化粧して、鉄漿(おはぐろ
(注2))を付けた、我が子・小次郎の年頃にて、十五,六才ばかりの、容貌まことに美麗な若武者です。
 
 「そもそも、貴方様は、如何なる御方におはします。御名をお聞かせ下され。その命、御助け致そう」、と申しますと、
 「かく申す、そなたは誰そ」

 「物の数では有りませぬが、拙者は、武蔵の国の住人・熊谷次郎直実と申します」
 「そうか、ならば、そなたには名を名乗るまい。但し、そなたにとっては良き敵ぞ。名を名乗らずとも、この首取って人に問え、知らぬ者は有るまい」
 
 「天晴れなる、その物言い。これぞ真の大将軍におはします。この大将を討ち取ったとて、負ける戦さに勝てるはずも無し、また、御助け申したとしても、勝つべき戦さに負ける事は余もあらじ。今朝も、一の谷にて、我が子の小次郎が浅傷負うたのさえ、この直実、あれ程狼狽えたではないか。
 
 もし、若武者の父が、この子討たれたと聞けば、いかばかり、嘆き悲しむことであろう。よし、この命、お助け申そう」と、直実が心に決めて、後を振り返りますと、土肥実平・梶原景季ら、源氏勢五十数騎が出で来たりました。

 熊谷、涙をはらはらと流して、
 「あれを御覧なされ。貴方様を如何にもして、お助けせんと思いましたが、味方の軍勢雲霞(うんか・
注3)のごとく満ち満ちて、とても御逃し申す事は叶いませぬ。この上は、同じ事なら、この直実が手に掛けて、貴方様の、その後の供養を仕りましょう」
 「ただ、如何様にも、早く、この首取れ」

 熊谷、余りのいとおしさに、振り上げた太刀を何処へ振り下ろして良いのやら、目もくらみ心も消え入りそうで、しばらくは前後不覚にとなっていましたが、何時までもそうしている訳にも参りません。泣く泣く首を掻き落としたのです。
 
 「ああ、弓矢取る身ほど、口惜しい事はなし。武芸の家に生まれなかったならば、かかる憂き目は見ずにいたものを。情け無う、首討ったるものかな」と、袖に顔を押し当てて、さめざめと泣いていました。

 その首を包まんとて、鎧直垂(よろいひたたれ)を解いて見ますと、錦の袋に入った笛が、若武者の腰に差してあります。
 
 「嗚呼、おいたわしや。この暁に、城の内にて管弦遊ばされていたのは、これらが御方達であったか。今、東国の勢は何万余騎居るが、戦さの陣へ笛を持ち来る者はまず居まい。公達の何と優さしい心根よ」

 その笛を、大将の源九郎義経にお見せして、若き公達の天晴れな最期を涙ながらに語りますと、回りの者皆、鎧の袖を絞らぬ者は居ませんでした。

 後に分かったことですが、この御方は修理太夫経盛の子・大夫敦盛と申して、今年17才になられたと言うことです。
(注4)
 
  これよりしてこそ、熊谷次郎直実は、仏心を抱きました。
 
 無冠の太夫敦盛が、所持していた笛は、祖父の忠盛が鳥羽天皇から賜ったもので、父の経盛がそれを預かり、笛が名手の敦盛に持たせたもので、名を”小枝”(さえだ)と申します。
 
 狂言を見てさえ発心する人がいるとは申しながら、この笛が直実の出家の原因となったとは、何と哀れな話では有りませぬか。


 直実雑感
 *名を名乗らずとも・・・敦盛は熊谷の問いかけに対して、名を明かそうとはしませんでした。身分の上下が厳しかった当時、身分の高い者は、低い者に対して名を明かさないのが慣わしでしたから、敦盛もそれに倣って、熊谷の誰何には答えず、熊谷もそれを当然の事として受け入れたのです。
 
 生死をかけた戦いの中にあっても、公達としての気品と誇りを失わなず、粛々として死を受け入れようとする若干16歳の若武者の健気さに、熊谷はすっかり圧倒されてしまいました。
 
 坂東の荒武者・熊谷は、これまで、功名を挙げんがために、数多の敵を殺めることを誇りとして来ました。しかし、今、眼前にする敵は、これまで殺めて来た関東の荒くれ者とは全く違う、彼が見たこともない都の香りを身に付けた、目映いばかりの公達です。
 
 敵とは言え、自らの功名がためには、この公達の命さえも奪わねばならぬのか。目を閉じて死を待つ若武者に向い、刃を振り上げた熊谷は、武門の宿命と、戦いの空しさを、初めて知って、さんざん苦悩しました。それでも、一旦、振り上げた刃は、振り下ろさなければならなかったのです。


 直実は、敦盛と対峙したことで、武者以前の裸の人間に立ち返り、本来人間が持って生まれた美しいものに感動する心、弱きものを慈しむ心、慈悲の心等を呼び覚まされて、人間として生きる事の難しさに思い悩んだ末、墨染めの衣に身を包み、人間とは如何に生きるべきかを探し求めて、旅に出たのです。法名を連生と申します。今でも京都のあちこちで、彼が出家後に残した様々な逸話が語り継がれ、足跡が残されています。

 (注1)・練貫(ねりぎぬ)・・・生糸を縦糸に、練糸を横糸に編んだ織物。
     ・鶴をあしらった直垂(ひたたれ)
・・・袖に絞りのある衣服で、鶴の紋様をあしらった物。
     ・萌葱匂(もよぎにおい)の鎧
・・・黄と青の中間色・薄緑をしたヨロイ。
     ・鍬形(くわがた)打ったる冑
・・・クワガタムシの角に似た飾を付けたカブト。
     ・金作(こがねづくり)の太刀
・・・金のメッキの金具で装飾した刀。     
     ・切斑(きりふ)の矢
・・・タカの白黒まだらの尾羽で作った矢。
     ・滋藤(しげどう)の弓
・・・幹を黒塗りにして、その上を藤の蔓で巻いた弓。
     ・連銭蘆毛れんぜんあしげ)の馬
・・・白に黒・濃褐色が混ざった毛に、銭型の紋様が入った馬。
     ・金覆輪(きんぷくりん)の鞍
・・・縁を金や金色の金具で覆い飾った鞍。
 
(注2)鉄漿(おはぐろ)・・・・
鉄分を酢に溶かした液で、黒く染めた歯当時の公家衆のみだしなみ。その後、女性が結婚した証に、歯を黒く染めるようになりました。田舎では、昭和のはじめまで、この風習は残っていました。
 (注3) 雲霞(うんか)・・・・・・数のたとえ・無数のものが押し寄せる様子を、雲やかすみに例えた言葉。
 (注4) 
大夫(たいふ)・・・位階で、五位の位の人。

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