本三位中将・重衡卿の東下り
琵琶法師 蝉丸

 百人一首の「これやこの 行くも帰るもーー」の歌で有名な蝉丸は、琵琶の道を極めた宇多帝の皇子・敦実式部卿から、教えを受けた異色の琵琶法師ですが、琵琶法師の集散地と思われる逢坂山の藁屋に住んでいました

 ”今昔物語”(第24 第23話)の「博雅と会坂の盲人蝉丸」には、源の博雅が、蝉丸が弾く琵琶の秘曲”流泉・啄木”を聞かんとして、彼のもとへ3年余りも通って、やっと弾いてもらったという話が載っています。
  
”世の中はとてもかくても過ごしてむ
      宮も藁屋もはてしなければ ”

 また、能の世界でも、これを題材にして、演じられているそうです。



 
左の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。

 

http://www3.ndl.go.jp/rm/
下巻 卷第十 六 「海道下りの事」

 さる程に、本三位の中将重衡の卿をば、鎌倉の前右兵衛佐頼朝、しきりに申されければ、「さらば下らん」とて、土肥次郎実平が手により、九郎御曹司の宿所へ渡し奉る。同じき三月十日の日、梶原平三景時に具されて、関東へこそくだられける。西国にていかにもなるべかりし人の、生きながら捕らへられて、都へ上り給ふだにくちをしきに、今さら又関の東へ赴かれけん心の中、推し量られてあはれなり。

あらすじ

 同じく 3月10日、鎌倉の頼朝公から再三催促があって、
 「それなれば止む無し」とて、重衡卿、梶原平三景時に伴われ、関東へ下りました。一の谷にて生け捕りにされ、都へ上ったのさえ口惜しいことなのに、今また、生き長らえて逢坂の関を越えなければならぬ、重衡卿の心の内こそ、推し量られて哀れです。

 四之宮
(山科区四之宮)に差し掛かれば、昔、延喜・第四の皇子・蝉丸(写真)が、関の嵐に心を澄まし(注1)、琵琶を弾きながら住われた藁屋跡(注3)が有ります。

 博雅の三位が、彼の弾く琵琶に誘われ、風の日も雨の夜も3年もの間通い詰めた末、終には蝉丸から、かの三曲
(注2)を拝聴したといわれるお話も、今は哀れに聞こえます。

 逢坂山を越えて、勢田の唐橋を渡り、雲雀さえずる野路の里
(注4)、琵琶の湖水を左に見て、霞たなびく鏡山(注4)、比良の高嶺を北に、やがて伊吹の嶽も近付きました。歌に詠まれた不破の関(注5)も今は荒れ果て、いかに鳴海の汐干潟(注6)、在原業平が歌を詠んだ三河の国(注7)も過ぎて、浜名の橋を渡りますと、松の梢を揺らす風、入り江に騒ぐ波の音、さすがに旅の心深くして、夕暮れには池田の宿に着きました。

 池田にては、宿の女主人にもてなされて、その夜は池田を宿とされました。女主人は、
 「噂にはお聞きしてはおりましたが、まさかあの重衡様が、この様な辺鄙なところへお越しになるとは、誠に不思議な御縁かな」、と驚いて、一首を詠んで差し上げました。

   
 旅の空はにふの小屋のいぶせさに 
               故郷いかに恋しかるらん 


 重衡卿の返歌に、

   
故郷も恋しくもなし旅の空
               都も終のすみかならねば


 重衡卿、梶原景時を呼んで、
 「この歌の主は何者ぞ、優しい心の持ち主かな」と聞けば、 梶原それに答えて、

 「貴方はご存知ありませぬか。あの者は、大臣殿・平宗盛卿が遠江守
(とうとうみのかみ・静岡県浜名湖周辺)をなされていた頃、可愛がられていた女にて、名を熊野(ゆや)(注8・写真)と申します。.宗盛卿が都へ連れ帰りし熊野を慰めんと、頃は弥生、花の宴を催されたことが有りました。

 丁度その頃、故郷の池田から熊野の元へ、老いたる母親が病にて伏せているとの便りがあったのです。熊野は国許の池田へ帰らなくてはなりません。しかしながら、主の折角の志を無にしてはと、宗盛卿に中々言い出せずに、 

 
 いかにせん都の春も惜しけれど 
              なれしあづまの花や散るらん  


 と、名歌を詠んで、主の宗盛様から暇を賜わったと聞いて居ります。海道一の歌の名人に御座ります」と申しました。


 都を出てから、月日を重ねて弥生も半ばとなりました。春もすでに過ぎ去らんとしています。残雪かと見紛う遠山の花や、霞み渡る島々を見るにつけ、重衡卿は来し方行く末を思い、
 「これは如何なる宿業ぞ」とて、尽きせぬものは、ただ涙です。

 昔は、重衡卿にお子様の一人も無いことを、母・二位殿も嘆かれて、妻の大納言典侍殿も、神に祈られましたが、その甲斐も有りませんでした。
 「しかし、今となっては、子が無くて良かった。もし有れば、なお思い悩む事も多かったわけだから」と思われる事が、せめてもの救いです。

 小夜の中山、又越え行けば
(注9)、益々その哀れはつのり、しきりに袂が濡れます。宇津の山(注10)を心細くも越えますと、遥か北に、雪化粧した山が望めました。

 「あの御山は?」と問えば、
 「甲斐の白峰」
(注11)と答える。そこで重衡卿、涙を抑えて、
  
   
をしからぬ命なれども今日までに 
               つれなき甲斐のしらねをも見つ


 富士の裾野
(写真)に近付きますと、北には青山が連なり、松林を抜ける風が、颯々と鳴って、南には滄海が満々と水をたたえています。足柄山を越えて、大磯の浦、御輿が崎を過ぎました。急がぬ旅も、日数を重ねると、遂には鎌倉に入りました。

         
          
伊豆高原から眺めた富士


 注1 関の嵐に心を澄まし・・・”逢坂の関の嵐のはげしきに しいてぞいたる世を過ごすとて” (続古今集 蝉丸)
 
注2 かの三曲・・・・・・・・・・・・流泉・啄木・揚真藻 の3曲 (有名な琵琶の秘曲・今昔物語参照の事)
 
注3 藁屋跡・・・・・・・・”世の中はとてもかくても同じこと  宮も藁屋もはてしなければ ” (新古今 蝉丸)
 注4 
鏡山(かがみやま)・・・・・・・滋賀県近江八幡市竜王町の山、歌枕として古くから詠われて来ました。
               ” 曇りなき 鏡の山に 月を見て
                       明らけき世を 空に見るかな”   
 ( 新古今集)
   
 野路(のじ)・・・・・・・・・・・・・・滋賀県草津市野路・東海道沿いの町。
 
注5 不破の関・・・・・”人住まぬ不破の関屋の板庇 荒れにし後はただ秋の風 ”  (新古今)  
 注6 鳴海潟(なるみがた)・・・歌枕 名古屋市緑区鳴海町
                    
” 浦人の日も夕暮れになるみ潟 
                           かへる袖より千鳥鳴くなり ” 
( 新古今和歌集)
 
注7 三河の国・・・・・・ ”唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ” (伊勢物語・在原業平)
 
注8 名を熊野(ゆや)・・・・熊野(ゆや)と宗盛卿の話は、能の世界でも取り上げられて、上演されているそうです。
 注9 小夜の中山(さやのなかやま)・・・・歌枕 静岡県掛川市
               ”年たけて また越ゆるべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山 ” 
                                               (西行 が陸奥の旅に出た時の歌)
 注10 宇津の山(うづのやま)・・・歌枕 静岡県安部郡
                 ”都にも今や衣をうつの山 夕霜はらふ蔦の下道”  
(新古今)
 注11
 甲斐の白峰・・・・白根山のことか。 歌枕
              
 ”甲斐が嶺に 木の葉降り敷く秋風も 心の色をえやは伝ふる” (拾遺愚草)
熊野御前   内大臣宗盛卿
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