那須の与一の晴れ姿
   
扇の的に向かって鏑矢をつがえる那須与一宗高
 

 この画像は、
 東京都台東区松が谷2−14−1 
 
矢先稲荷神社  のホームページから、許可を受けてコピーしたものです.。
那須与一宗高の墓
東山区泉涌寺山内町 「促成院」内
市バス 「泉涌寺通」下車 泉涌寺門前左
 

 ”1、源平勝負の晴れの場所
    武運はこの矢に定まると
   那須の与一は一心不乱
    ねらい定めてひょっと射る
  
  2、扇は夕日に きらめきて
    ひらひら落ちゆく 波の上
    那須与一の 誉れは今も
    屋島の浦に 鳴り響く ”

               (小学唱歌より)
 
 
促成院と那須与一

 那須与一が関東から、源義経に従ってこの地に来た時、突然、病に倒れ、促成院の阿弥陀如来に治癒を祈願した所、たちまち快癒したと言うことです。しかし、屋島で大活躍したにも拘わらず、義経に付いたが為に、合戦が終わった後、頼朝からの報償も少なく、この寺を尋ね出家して、34歳で亡くなったと言われています。(一説には、大阪で出家したとも・・・)
 関東・下野の那須出身でありながら、この地に葬られているのにも、何か複雑な事情が有るのでしょうか。なお、京都府下亀岡市にも、与一堂があり、そこでも、これとよく似た話が伝えられています。



 与一の弟・那須の大八について


 九州の山間部椎葉地方は、平家の落ち武者伝説で有名な土地ですが、同地の民謡”稗つき節”に、

        
 ”和様 平家の公達流れ おどま追討の那須の末ヨ
          那須の大八 鶴富おいて 椎葉立つ時きゃ 目に涙ヨ
            泣いて待つより野に出て待つよ 野には野菊の花盛りヨ”


 と言う一節があります。歌詞の中に歌われている「那須の大八」と申すお方は、那須の与一の弟さんだそうです。 歌の要旨は、九州の山中に潜伏する、平家の残党を討伐するために、病気中の与一に代えて、鎌倉から派遣された那須の大八は、隠れ住んでいた平家の娘・鶴富姫と恋に落ちますが、鎌倉から大八に帰還命令が下りて、涙ながらに別れなければなりませんでした。この悲恋物語を、歌詞の中に織り込んだものだそうです。


 
 松尾芭蕉 ”奥の細道” 那須の温泉大明神より
 
 芭蕉はみちのくへの途上、那須与一が扇の的に向った時、”南無八幡大菩薩、別して 我が国の神明・日光の権現・宇都宮・那須の温泉大明神 願はくは・・・”と、お祈りしたと伝えられる、八幡宮へ御参りしました。
 当神社の正式名称は、「那須温泉神社」と申し、創建は7世紀 舒明天皇在位の頃という事です。栃木県那須町湯元82に現存し、与一が奉納した鳥居を、芭蕉もくぐったそうです。
 下記は、奥の細道の一説です。但し、俳句は行者堂を詠んだものです。

 
”・・・それより八幡宮に詣ず。余市扇の的を射し時、別して我国氏神八まんとちかひしも、此神社に侍ると聞けば、感応殊にしきりに覚へらる。暮れれば桃翠宅に帰る。修験光明寺と云う有り。そこにまねかれて行者堂を拝す。
   
     夏山に 足駄を拝む 首途(かどで)哉        ”


下巻 巻第十一  五,「那須与一の事」

 
さる程に、阿波讃岐に、平家を背いて源氏を待ちける兵ども、あそこの峰ここの洞より、十四五騎、うち連れうち連れ馳せ来る程に、判官ほどなく三百余騎になり給ひぬ。「今日は暮れぬ、勝負は決すべからず」とて、源平互に引き退く所に、沖より尋常に飾ったる小舟一艘、渚へ向ひて漕ぎ寄せ、渚より七,八段ばかりにもなりしかば、船を横様になす。「あれはいかに」と見る所に、船の中より、年の齢十八九ばかりなる女房の、柳の五衣に、紅の袴着たるが、皆紅の扇の、日出したるを、船のせがひに挟み立て、陸に向かってぞ招きける。

  
 祈り岩: 香川県牟礼町
 那須与一が武運を祈ったと云われています。

 上記の画像は、緒方雅浩氏のホームページ
 ”
屋島まんでがんGUIDE”から許可を得て掲載しました。
あらすじ

 さる程に、阿波讃岐には、平家に背いて源氏に従う兵どもが、あそこの峰・こちらの洞から、14,5騎20騎とうち連れうち連れて、馳せ参じる程に、判官の勢は、ほどなく三百余騎にもなりました。

 「今日は、もう日も暮れぬ。勝負を決すべきにあらず」とて、源平互いに引き退く所に、沖より美しく飾った小舟が一艘、岸へ向って漕ぎ寄せて、渚より7,8段ばかりになりますと、横様に止まりました。

 「あれは如何に」、と見る所に、船の中より、年の頃なら18,9ばかりの、柳の五衣
(注1)に、紅の袴着た女房が、皆紅に日の出を描いた扇を船板に挟み立て、陸に向って手招きしております。

 判官、後藤兵衛実基を召して、
 「あれは如何に」と、問えば、
 「あの扇を射よとの誘いでしょう。但し、殿が矢面に進んで、傾城
(けいせい・美女の事)を御覧になられている所を、手垂れ(てだれ・注2)に狙わせて射落とさんとする謀り事かも知れませぬ。何れにしても、あの扇を射落とさねば」、と申せば、判官、

 「味方に、あれを射落とせる手垂れ(てだれ)は誰かある」
 「手垂れは数多居ますが、中にも下野国の住人・那須太郎資高が子にて、那須与一宗高こそ、小兵なれども腕利きに御座りまする」
 「証しはあるか」
 「されば、空飛ぶ鳥を競い合って、三羽に二羽は必ず射落としまする」、と申しますと、判官、
 「ならば、与一を呼べ」とて、那須与一が召されました。

 与一その頃は、未だ20ばかりの男です。その日の装束には、褐地(かちんぢ)に赤糸の錦にて袖を縁取りした直垂に、萌葱縅(もえぎおどし)の鎧着て、足白の太刀
(注3)を帯き、二十四本の矢に、鷹の羽の鏑矢(注4)を添えて背負い、滋藤の弓(注5)を小脇に抱えて、甲は脱いで高紐(注6)に掛け、判官の前に畏まりました。

 「いかに与一、あの扇の真ん中射て、敵に目に物見せよや」
 「その話とてもお受け出来ませぬ。これを、もし万一射損じたならば、永き味方が弓取る者の疵となりましょう。もっと確かな御仁に、仰せつけ下さるべきかと存じます」、判官これを聞くや、大きに怒って、
 
 「今度、鎌倉を出でしより、西国に向はんとする者どもは、この義経の下知(げち・命令)に背くべからず。もし、それに少しも異論ある者は、これより早々に鎌倉へ帰るがいい」と、声を荒げました。
 与一、重ねて辞するのは、悪しかりなんと思ったのでしょう、

 「されば、当たり外れは時の運、御下命とあらば仕りましょう」、と答えた与一、御前を罷り出でて、黒く逞しき馬に、寄せ木紋様を染め抜いた金覆輪の鞍
(注7)置いてうち乗り、弓取り直して手綱をさばきながら、渚へ駒を歩ませました。味方の兵ども、与一の後姿をばはるかに見送って、
 「あの若者なら、きっとやり遂げるぞ」と、口々に申しますと、判官も頼もしげに見送っております。

 渚からは矢頃が遠くて届きそうにもありません。海の中に一段
(注8)ばかり乗り入れましたが、それでも扇は七段ばかり、遥か沖合に見えます。その上、頃は2月28日午後6時ごろ、時々北風が激しく吹いて磯打つ波も高く、船は揺り上げ揺りすえて漂えば、扇の的も定まりません。

 沖には平家が船を一面に並べ、陸には源氏が轡(くつわ)を並べて、海と陸から数千余名が固唾を飲んで与一を見守って居ます。何れを眺めてましても、真に晴れがましい光景ではありませんか。

 はやる気持ちを抑えて、静かに瞼を閉じた与一は、

 「南無八幡大菩薩・別して我が国の神明・日光の権現・宇都宮・那須の温泉大明神
(上記参照)、願わくは、あの扇の真ん中射させ給え。もしこれを射損じたならば、弓折りて自害し、人に二度とこの面見せぬ覚悟。今一度、那須へ帰そうと思し召されるならば、この矢外させ給うな」と、心の内に祈念し目を開けますと、風は少しは治まって、扇が射良げに見えました。

 与一、時は今ぞと、鏑矢を取って弓につがえ、キリリと絞ってひょっと放ちました。
 小兵とは申せ矢の長さ十二束余り
(注9)にて弓は強し、浦には風切る矢鳴りが響き渡り、放たれた矢は狙いあやまたず、扇の要から一寸余りをひゅっと射抜いたのです。

 鏑矢は孤を描いて海に落ち、扇は空へひらひらと舞い上がり、やがて春風に一揉み二揉みもまれて、海にさっと散りました。紅の扇は、赤い夕日に照らされて、白波の上に漂いながら、浮きつ沈みつ波に揺られておりました。

 沖では平家が船端を叩き、陸では源氏が箙
(注10)を叩いて、海と陸からわき起こった大きなどよめきは、何時までも治まりませんでした。


 
(注1) 柳の五衣いつつぎぬ)・・・・・・表が白、裏地が青の、5枚重ねの衣。
 
(注2) 手垂れ(てだれ)・・・熟練者
 (注3) 足白(あしじろ)の太刀
・・・・・・・鞘を通すための金具を、銀で作った太刀。
 (注4)
 鏑矢(かぶらや)・・・木を卵型に削り、中をくり抜いて、これを先端に付けた矢。この矢を射ると、空洞が風を受けて共鳴し、大きな唸り音を発し敵を威嚇します。主に、戦いの開始の合図や、儀礼に用います。
 
(注5) 滋藤の弓(しげどうのゆみ)・・・幹を黒く塗り、藤のつるで巻いた弓。
 
(注6) 高紐(たかひも)・・・・・・鎧の胸のところに付いている締め紐の輪。
 
(注7) 金覆輪きんぷくりん)の鞍・・・・金色の金具で縁取りした鞍。
 
(注8) 一段・・・・・・・・・・・・・・距離の単位 一段は約11メートル
 (注9) 
12束余り(12そくあまり)・・・・長さの単位、1束は、手のひら親指を除いた小指までの幅・約6センチ。
 (注10) 箙(えびら)・
・・・・・・・24本の矢を入れて、背負う籠の事。他に筆記具・紙・工具などを収納出来ます。


吉川英治作 ”新平家物語”で語られる「扇の的」の、その後。

 吉川英治氏は独自の歴史観に基づいて、”新平家物語”を製作されましたが、その中で、那須の余一の扇の的に関して、後に屋島へ駆け付けた梶原平三景時が、その誉れを散々に罵倒したと書かれています。以下は梶原の語った台詞の抜粋です。義経は、それが鎌倉へ知れるのを恐れて、与一を船底に閉じ込め、謹慎処分にしたのです。

 「与一殿、梶原が杯を遣わそう。」
 「かたじけのう存ずる。」
 「が、那須殿、よう聞けよ。」
 「はっ。」

 「この杯は、扇を射たとやら、敵味方船端をたたいてはやしたとやら、そんな他愛もない芸に与える杯ではない。お主とのいとまの杯じゃ。今日以後、お主は陣を出て、謹慎してはどうかのう、鎌倉殿の沙汰があるまで。」
 「それは如何なる訳にて。」

 「平家人は知らぬこと、東国においては、おぬしの如き振る舞いを、柔弱者とは申すなれ、一筋の矢なりとも鎌倉殿のおんため射てこそ、まことの御家人、忠義の侍と申せるが、戦いのただ中に、敵方の見目良き上臈(じょうろう・美しい女性)が掲げし扇などを、見世物のように、射よとか、射てみせんとか、興じ合い、それを射たとて何の自慢ぞ。」

 「いや、仰せなれど、この与一誇った覚えはありませぬ」
 「誇ろう心があればこそ、人中へ馬乗り出して、これ見よがしに、弓の技を見せたのであろうが。もし射損じたならば、腹切る覚悟でおったか。・・・・わははは、ばかな話だ。そも、武者の命を、誰のものと思いおるぞ。言語道断な。」
 「・・・・・・・。」



 扇の的 雑感 ”命を賭ける”

 
戦国時代のお話です。
 ある武将が、数多の家臣を集めて、琵琶法師を館に招き、「何か哀れな話を語れ」と、申し付けました。すると琵琶法師は
、”扇の的”を語り始めたのです。

 法師が、
”扇は空に舞いにける。春風にひともみふたもみ揉まれて・・・”と語り終えますと、満座の拍手喝采は、何時までも鳴り止みませんでした。

 そんな中にあって、その武将のみ はらはらと涙を流していたのです。
 家臣がそれを怪しんで、
 
 「我が殿、如何がなされた、かかる天晴れなる話を聞かれて、涙を流されるとは?」と問えば、その武将は

 「私は、かような他愛も無い座興(ざきょう・遊び)に、命を賭けた那須与一が哀れでならぬ」、と答えたのです。家臣どもが、

 「殿の仰せが、私共には合点出来ませぬ」
 「ならば聞くが、与一は戦いにて名を挙げたのか?」
 「いいえ、その日の戦いが終った後の、ほんの座興(遊び)に御座ります」
 「座興にて名を挙げた者に、褒美が下されるのか」
 「いいえ、戦いで名を挙げたのならいざ知らず、座興にて名を挙げても、褒美は下されますまい」

 「与一は、”これを射損じたならば、腹を切る”と申しているが、これは如何に?」
 「源平両軍が見守る中にて、扇の的を射損じたなのら、武士として、腹を切るのは当然でしょう」
 「与一が腹を切るだけで済む問題でも有るまいが。」
 「当然、射損じれば那須一族の恥となり、一族の浮沈にも拘わります」

 「ならば聞くが、ほんの座興のために、与一は何故一族の浮沈を賭けねばならなかったのか」
 「名誉のためと覚えます」
 「座興にて名を挙げんがために、一族郎党の命運を賭けたと言う事か?」
 「さて、それは・・・。それに大将の命令には逆らえませんから」
 「義経公の命令に従えば、与一がこれを成し遂げて名を挙げたとしても、座興であるから褒美は出さぬ。但し、万一仕損じたなら、与一は腹を切って、一族郎党は路頭に迷うと言う事だな」
 「左様で」

 「武士が戦いに命を賭けるのは、国に残した一族のため、戦いの場にて高名を挙げ、褒美に預からんがためであろうが」
 「仰せの通りに御座ります」
 「他愛もない座興のために、理不尽なる命令を下した義経公に非があるとは思わぬか。それでもなお、大将の下した命令には逆らえぬ、与一の哀れな心情を思ってもみよ、誠に哀れな話ではないか」
 「殿の仰せ、ご尤もに御座ります」    
               おわり

物語あれこれ

 ”扇の的”を、武勇伝として讃えるか、哀れな話として聞くか、聞く者の身分や立場によって、また、聞く者の心情によって、様々な感じ方が有るものです。
 何処かの弓の名人が、実際に7段(77m)の距離で実験されたそうですが、当たる確立は万分の1だったそうです。但し、アテネ五輪で見事銀メダルを射止められた某先生なら、当たるかも・・・。
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