哀れ 安徳帝の御入水

案徳帝御入水之処
             枚方市 重田氏撮影
政争の犠牲になった幼帝・安徳天皇

 古今・東西を問わず、戦争で犠牲になるのは、子供や女達です。 とりわけ、安徳帝は、2才で皇位を継承されて、今日まで、この世で如何なる罪を犯されたと言うのでしょうか。ただ、清盛公の奢りと、一門の高ぶりが、この幼い帝の命を奪ったのです。今、アフガンや、パレスチナ、イラク、チェチェンでも、大人達のエゴの蔭で、同じ悲劇が繰り返されて、子女がその犠牲になっています。

 人間の進歩とは、過去の悲劇を繰り返さない事ではないのか。過去を振り返って何を学んだのか、指導者に問い返したくなります。 決して、水の底には、竜宮城はありません。子供や女達のために、この世に竜宮城を作るのが、大人達の使命なのです。

 
上の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。

 http://www3.ndl.go.jp/rm/

下巻 巻十一 十「先帝御入水の事」 その1

 又沖より、いるかと云ふ魚一、二千、這うて、平家の船の方へぞ向かひける。大臣殿、小博士晴信を召して、「いるかは常に多けれども、未だこようの事なし。きっと勘へ申せ」と云へば、「このいるかはみ帰り候はば、源氏亡び候なんず。はみ通り候はば、御方の御軍危う覚え候」と申しもはてぬに、平家の船の下を、直に這うて通りける。世の中今はかうぞ見えし。

あらすじ
 
 遥かな沖より平家の船に向かって、イルカの大軍が押し寄せて来ます。これを御覧になった宗盛卿が、陰陽師の小博士・安倍晴信をお側に召して、

 「今日はイルカがことの外多いが、占って見よ」と、申し付けました。晴信が、
 「もし、あのイルカの群が翻って、源氏に向かうようであれば、源氏は亡びるでしょう。しかし、真っ直ぐこちらへ、押し寄せるような事にでもなれば、平家の御運は、最早危ういかと覚えます」と、答え終わらぬ内に、その大群は、どんどん近付いてきます。 
 そして、平家の船の下を潜り抜けると、遥か遠くへ去って行きました。世の中も、今はこれまでと見えたのです。

 阿波民部重能は、この3ヶ年が間、平家に付いて、忠義を尽くして来ましたが、屋島にて嫡男・田内左衛門教能が、源氏に生捕りにされ、今は叶わじと思われたのでしょう、忽ち心変わりして、源氏と一つになりました。

 新中納言・知盛卿が、
 「それ見たことか、あの時、斬って捨てるべきものを」と、後悔されましたが、それも、今は叶いません。

 平家の謀(はかりごと)には、位の高い武者を兵船に、雑兵を大きな唐船にそれぞれ乗せて、源氏が心憎さに唐船を攻めれば、中に取り籠めて討たんと支度しました。
 しかし、阿波民部が裏切った上は、その企みが漏れて、源氏勢は唐船には目もくれず、大将軍・宗盛卿らが身をやつして乗り込んだ兵船を、攻めて来ます。
 
 その後は、四国・鎮西(九州の事)の兵ども、次々に平家に背いて源氏に付きました。つい先程まで、付き従っていた者が、君に向かって弓を引き、主に対して刃を抜いたのです。
 
 此方の岸に船を付けんとすれば波高く、彼方の渚に寄らんとすると、敵が矢先を揃えて、待ち受けています。源平の国盗り合戦も、今日を限りと見えました。

         小泉 八雲 作   耳なし芳一”へ
船の掃除を始めた知盛卿

 一ノ谷で嫡男の友章を見殺しにして、一時は落ち込んでいた知盛卿でしたが、すっかり立ち直って、不甲斐ない兄の宗盛卿に替わり、平家をここまで、統率して来ました。

 しかし、坂を転げ落ちる様に、滅び行く平家を、再び蘇らせることは、最早、彼の力を持ってしても出来ませんでした。

 平家の敗北をいち早く覚った知盛卿は、騒ぐ女房達を後目に、さっさと船の掃除を始めたのでした。「見るべき程の事は見つ」と言った、彼の言葉に、万感の思いが込められています。
    
右の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
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下巻 巻十一 十「先帝御入水の事」 その2

 さる程に、源氏の兵ども、平家の船に乗り移りければ、水手舵取ども、或いは射殺され、或いは斬り殺されて、船を直すに及ばず、船底に皆倒れ臥しにけり。新中納言知盛卿、小舟に乗って、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて、「世の中今はこうと覚え候。見苦しきものどもをば、皆海へ入れて、船の掃除召され候らへ」とて、掃いたり、拭うたり、塵を拾ひ、艫舳に走り廻って、手づから掃除し給ひけり。

 女房たち、「やや、中納言殿、軍の様はいかにやいかに」と問ひ給へば、「ただ今、珍しき東男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ」とて、からからと笑はれければ、「何でふただ今の戯れぞや」とて、声声に喚き叫び給ひけり。

あらすじ

 さる程に、源氏の兵どもが、次々と、平家の船に乗り移って来ますと、船の水夫や舵取りは、或いは射殺され、或いは斬り殺されて、船の方向を変えることさえ出来ず、船底に皆倒れ臥しました。

 新中納言知盛卿、小舟に乗って、急ぎ御座船に乗り移り給いて、
 「この世も、今はこうと覚えまする。見苦しき物をば、皆海に投げ入れて、舟の掃除を召され候え」と言いつつ、掃いたり、拭ったり、塵を拾うなど、船上を走り回って、自ら船の掃除を始められたのです。
(写真)

 女房らが、
 「ややっ、中納言殿、戦さの方は、如何になりましたのか」と尋ねますと、
 「只今、珍しい東男が、御覧になれますぞ、はっはっはっ」と、豪快に笑って見せました。それでも、状況が飲み込めない女達は、
 
 「如何してこんな時に、冗談を言いなさるのか」と、口々に喚き叫ぶばかりです。

 二位殿(清盛公の妻・時子)は、日頃から、この日が来る事を覚悟されていたのでしょう、鈍色(にぶいろ)の打掛を羽織り、袴の裾をからげて、神璽(しんじ・勾玉)を小脇に、寶剣(ほうけん・三種の神器の一つ)を腰に差して、安徳帝を抱きかかえ参らせ、

 「わらわは、女と言えども、敵の手に掛かりとうはありませぬ。帝の御供を致します。御志しを同じくする方は、我に続き給え」とて、しずしずと船端へ歩み出でられたのです。

 帝は今年、8才になられたばかりですが、御見かけは、遥かに大人びて見えますし、端正な御姿は、辺りに照り輝くばかりです。肩まで伸びた黒髪をゆらゆらさせながら、二位殿に抱かれておわしましたが、回りの異様な雰囲気に、御身に降り掛かる、哀れな行く末を感じられたのでしょう、

 「そもそも尼前
(あまぜ・注1)、我をいづこへ連れて行かんとするぞ」と、心細げにお尋ねになりました。二位殿思わず、はらはらと涙を流して、

 「幼い君には、未だ、お分かりにはならない事でしょう。君は、前世に積み重ねた善行の御力によって、目出度く日本国の天子として、この世にお生まれになりました。しかし、この世の悪縁重なって、最早、その御運も尽きてしまったのです。先ずは、東に向かって、伊勢神宮にお暇致しましょう。それから、西方浄土の来迎に預れる様に、御念仏なされませ。この国は粟散辺土
(そくさんへんど・注2)と申して、住み難う御座いました。しかし、あの波の下にこそ、極楽浄土とて、素晴らしき都があります。これから、君を其処へ、お連れ致しましょうぞ」と、散々にお慰め申し上げました。

 山鳩色の御衣を召して、鬢面
(びんずら・注3)を結はせ給うた帝は、涙にまみれた小さな手を合わせて、教えられるままに、東の伊勢神宮にお暇を告げられ、次ぎに、西に向かい念仏遊ばされました。 二位殿に抱かれた帝は、やがて、

 「波の底にも、都の候ぞ」と言う声と共に、千尋の底深く沈んで行かれたのです。

 嗚呼、悲しいかな、無情の春の風が、忽ちの内に花の御姿を散らし、痛ましき哉、生死を分ける荒波が、玉体
(ぎょくたい・注4)を海の底に沈め奉りました。御殿を長生殿と名付けて、長き棲家と定め、門をば、老うことの無いようにと、不老門と号しながら、未だ10才にもならぬ内に、海の底の藻屑となられたのです。

 前世からの御縁にて、天子に選ばれた御方が、この様な惨い仕打ちを御受けなさるとは、どう申して良いのやら、言葉もありません。

 雲上の龍が降りて、海底の魚になりました。梵天の住まいの様な宮殿に住まわれて、数多の大臣や公卿にかしずかれ、平家一門を従えて来た御方が、今は船に住まわれて、遂には、水の底にて、御身を亡ぼし給われし事こそ、誠に悲しいことです。


 (注1)尼前(あまぜ)・・・二位殿の事。夫の清盛が他界して、仏門に入られて、時子は尼になられていました。
 (注2) 粟散辺土(そくさんへんど)・・・粟粒を撒いた様な、小さな国。インドや中国などの大国に対して、小さな日本を指す言葉として使われます。
 (注)3 
鬢面(びんづら)・・・髪を頭の中央で左右に分け、耳のあたりで束ねた、当時の少年の髪型。
 (注4) 玉体(ぎょくたい)・・・帝の御体の尊称。
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