新中納言知盛卿の最期
     
 謡曲 ”船弁慶”
 「亡霊となって現れた新中納言・知盛卿」
         
          シテ  新中納言・知盛
          ワキ  武蔵坊・弁慶
あらすじ

  壇ノ浦の合戦の後、鎌倉の頼朝公に追われた九郎判官義経は、都で頼朝軍と戦うことを避けて、九州へ逃れんとします。伴って来た静御前を都へ帰して、武蔵坊弁慶等と共に、摂津の大物浦から、船出しました。

 しかし、海は生憎の大時化です。荒波と雷鳴轟く中、舟は木の葉のように、海の上を漂い始めました。

 その時、突如、黒髪を振り乱して現れたのが、壇ノ浦で討ち死にした新中納言知盛卿の亡霊です。

 「そもそもこれは、桓武天皇9代の後胤、平の知盛、幽霊なり。あら珍しや、いかに義経」

 平家一門の恨みを晴らさんと、怒りの形相もの凄く、打ち掛かる知盛卿に、義経も太刀を抜いて応戦しますが、所詮相手は亡霊、太刀では叶うはずもありません。

 義経を制した武蔵坊弁慶が、陀羅尼経を唱えて、調伏しました。弁慶が懸命に打ち振る数珠によって、ようやく怒りを治めた亡霊知盛卿は、やがて静かに、海の底へと消えて行きました。

            作 観世小次郎信光
 
 亡霊・新中納言知盛卿

 
上の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。

 http://www3.ndl.go.jp/rm/
    
 上記の画像はから、製作者の承諾を得て、転載しました。
 赤間神宮 (阿弥陀寺)
 山口県下関市阿弥陀寺町4-1
 
赤間神宮のシンボルともいえる「水天門」は竜宮をイメージして造られました。。
“安徳天皇の玉体は水底に沈んだが、御霊は天上にある”ところから、こう呼ばれています。
 七盛塚 赤間神宮内

 平家一門の墓。前列右から「有盛・清経・資盛・教経・経盛・知盛・教盛」、後列は家の子・郎等で
「家長・忠光・景経・景俊・盛継」、さらに後ろに一門の「忠房・二位尼時子」となっています。
下巻 巻十一 十二「内侍所の都入の事」 その1

 新中納言知盛の卿は、「見るべき程の事は見つ。今はただ自害せん」とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、「日来の契約をば違ふまじきか」と宣へば、「さる候」とて、中納言殿にも、鎧二領着せ奉り、我が身も二領着て、一所に海にぞ入り給ふ。これを見て、当座にありける二十余人の侍ども、続いて海にぞ沈みける。

 されども、その中に、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛などは、何としてかは逃れけん、そこをもつひに落ちにけり。海上には、赤旗赤符ども、切り捨てかなぐり捨てたりければ、竜田河の紅葉を、嵐の吹き散らしたるに異ならず。渚に寄する白波は、薄紅にぞなりにける。

あらすじ
 
 (安徳帝が、二位殿と共に水に入られ、平家の公達もそれに続いて、次々と身を投げて行きました。そして遂には、あれ程、果敢に戦っていた猛將・能登殿さえもが、自ら命を絶ったのです。)

 新中納言・知盛卿、(先刻から、舟の舳先に立って、この様子を、つぶさに御覧になっていましたが)

 「見るべき程の事をば見つ。今は自害せん」とて、乳母子の伊賀の平内左衛門家長を召して、
 「汝とは、日頃から、生きるも死ぬも一緒と契っていたが、その気持ちに変わりは無いか」、
 
 「申すまでも御座りませぬ」とて、家長、知盛卿に2領の鎧をお着せし、自らも2領着て、主従が手に手を組んで、一所に海へ入りました。

 これを見て、今日まで知盛卿に付き従って来た20余人の侍どもも、続いて海に沈んで行きます。されども、あれ程の忠義の侍・越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛などは、どうして逃れたのか、源氏の包囲する中をかい潜って、何処かへ落ちて行ったのです。

 かくして、平家が悉く散り去った海には、赤旗・赤符などが、切り捨て、かなぐり捨てられて、まるで竜田河の紅葉を、嵐が吹き散らした様に、水を赤く染めました。渚に寄せる白波さえ、薄紅色に染まった程です。主をなくした空しい舟が、潮に引かれ風に吹かれて、何処を指すともなく、ゆらゆら揺れて行く姿こそ、本当に悲しいものです。

 戦いにて生捕りになった平家の公家達には、先ず、前内大臣宗盛卿とその子息右兵衛督清宗、並びに、8才の若君副將・平大納言時忠公、内蔵頭信基・讃岐中将時実・兵部少輔雅明、僧侶には、二位の僧都專親・法勝寺の執行能園・中納言律師忠快・経誦坊の阿闍梨融園、

 侍には、源太夫判官季貞・摂津判官盛澄・藤内左衛門尉信康・橘内左衛門尉季康・阿波民部重能父子ら、以上38名です。その他、菊池次郎高直・原田太夫種直は、軍さ以前より兜を脱ぎ、弓の弦を外して、降人に参っておりました。

 女達には、女院(建礼門院)・北の政所・大納言典侍殿・師の典侍殿・冶部卿局ら、43人と言うことです。

 元暦2年(1185)の春の暮は、如何なる年月にて、一天の帝が海の底に沈められ、大臣・百官が波間に浮かばれる事となったのでしょう。

国母(建礼門院)や官女達が、関東・鎮西の蛮人に連れられ、大臣卿相は、数万の南蛮・北荻に捕らえられて、故郷の都へ上って来る心の内は、故郷に錦を飾れなかった、中国の朱買臣の嘆きや、或いは、王昭君が胡国に赴いた恨みも、よもや、これには及ばなかった事でしょう。

 4月3日、九郎判官は源八広綱をして、都の御所へ、奏聞せられました。
 「去る3月24日卯の刻(午前6時)、豊前田の浦・門司が関・長門壇ノ浦・赤間が関にて、平家を悉く攻め滅ぼし、内侍所・神璽の御箱を、つつがなく都へお返し申し上げまする」。

 法皇は感激の余り、使いの源八広綱を、御坪の内に召して、合戦の次第を詳しくお聞きになり、広綱を左兵衛になされました。

 同じく 5日、神器の到着が待ちきれない法皇は、北面の武士・藤判官信盛を召して、「内侍所・神璽の御箱が、誠に帰るか見て参れ」、と御命じになって、御所の馬に打ち乗った藤判官は、一路西を指して駆け下りました。

下巻 巻十一 十二「内侍所の都入の事」 その2
 
 さる程に、九郎大夫判官義経、平氏男女の生捕ども、相具して上られけるが、同じき十四日には、播磨國明石の浦にぞ着かれける。名を得たる浦なれば、ふけ行くままに月澄み上り、秋の空にも劣らず。女房達は、さし集ひて、「一年ここを通りしには、かかるべしとは思はざりしものを」とて、忍び音に泣きぞ合はれける。
 
 師典侍殿、つくづくと月をながめ給ひていと思ひ残せる事もおはせざりければ、涙に床も浮くばかりにて、かうぞ思ひ続けらる。

         ながむれば ぬるる袂に宿りけり 
                   月よ雲居の 物語せよ

あらすじ

 さる程に、九郎大夫判官義経、平家の公達・女官ら、生捕りにした者どもを引き連れ、壇ノ浦を後に都を目指して出立しましたが、同14日には、播磨の国・明石に着きました。ここは、月の名所として有名な浦ですが、その日も暮れ行く程に、澄み渡った空に月が昇り、秋の夜空に劣らぬ美しさです。女房達がさし集いて、

 「一年(ひととせ)都落ちして、ここを通った時には、まさかこんな事になろうとは、思いもしなかったものを」と、皆忍び泣いておりました。

 師の典侍殿は、つくづくと月を眺めながら、去りし日の、様々な思い出にひたられ、涙に床も浮くばかりにて、その心の内を、歌に綴られました。

         
ながむれば ぬるる袂に宿りけり 
                   月よ雲居の 物語せよ


 治部卿の局は、
         
雲の上に見しに かはらぬ月影の
                  すむにつけても ものぞ悲しき


 更に、大納言典侍局は、
         
我が身こそ明石の浦に 旅寝せめ
                  同じ波にも 宿る月かな


 九郎判官は猛き武者では有りますが、さすがに、
 「尤もなことだ。各々、昔が恋しかろう、物悲しいであろう」と、身に沁みて哀れに思われた様子です。

 同じく25日、内侍所・神璽の御箱が、京の鳥羽に着いたと聞くや、内裏よりのお迎えに参じた人には、勘解由小路
(かげゆこうじ)の中納言経房の卿・検非違使別当左衛門督実家・高倉の宰相中将泰通、武士には伊豆蔵人大夫頼兼・左衛門尉有綱(頼政の孫)らだと言うことです。

 その夜の子の刻(12時)には、神器が太政官の庁に運び込まれました。宝剣は、安徳帝と共に西海に沈んで有りませんが、神璽(勾玉)は、西海に浮かんでいたところを、片岡太郎経春が拾い上げ奉ったと言うことです。

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