義経と頼朝の不和

 腰越状の事


 生捕りにした平家の御大将・宗盛親子を召し連れて、戦勝報告のため、勇躍東へ下った源義経でしたが、彼を待ち受けていたのは、鎌倉への入国拒否でした。

 黄瀬川での涙の対面以来、宇治川・三草・一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦いに悉く勝利して、さぞかし兄も歓待してくれるであろうと、再会に胸を弾ませていた義経にしてみれば、思いも掛けない頼朝の仕打ちです。

 一つの原因は、彼の部下に優秀なブレーン(軍師)が居なかった事が上げられます。物語でも彼の相談相手は、山賊あがりの伊勢の三郎以外にめぼしい人物は登場しません。悲しい哉、義経には、自らの立場が分からず、頼朝の心や、頼朝が目指す政の図式が読めなかったのです。
 野球の世界でも同じ事、名選手が必ずしも名監督ならず。
 腰越で義経が、頼朝のブレーン・大江広元に宛てて、その心情をし吐露したのが、世に「腰越状」と言われる書状です。

 その文面からは、牛若丸と呼ばれた幼少の頃、追及の手から逃れて、日々の生活にも苦労した様子が窺われます。
鶴岡八幡宮 鎌倉市
下巻代十一 十六「腰越の事」

 元暦二年五月七日に日、九郎太夫判官義経、大臣殿父子具足し奉りて、既に都を立ち給ふ。粟田口にもかかり給へば、大内山は雲居のよそに隔りぬ。関の清水を見給ひて、大臣殿泣く泣く詠じ給ひけり。

        都をば今日をかぎりの関水に
             またあふ坂の影やうつさん

 道すがらも心細げにおはしければ、判官情ある人にて、やうやうに慰め奉り給ひぬ。


義経の預けられた鞍馬寺
         

 真言宗 大覚寺派 龍護山 満福寺 所蔵
 神奈川県鎌倉市腰越2−4−8 交通機関 江ノ島電鉄「満福寺」下車 徒歩10分

 兄・頼朝から鎌倉入りを拒まれた源義経主従は、腰越の満福寺に逗留し、頼朝の懐刀である大江広元宛、嘆願書「腰越状」を、書きました。

 写真左は、”義経が腰越状の清書をしている様子”が、鎌倉彫で描かれています。
 写真右は、”武蔵坊弁慶が下書きした腰越状の一部”であると、言い伝えられています。


なお、上記写真は、の製作者から許可を得て、転載したものです。

腰越状全文


 
”源義経恐れ乍ら申し上げ候意趣は、御代官のその一つに選ばれ、勅宣の御使として、朝敵を平げ、会稽の恥辱を雪ぐ。勳賞行はるべき所に、思ひの外に虎口の讒言によって、莫大の勲功を黙せらる。義経犯すことなうして科を蒙る。功あって誤りなしといへども、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。つらつら事の心を案ずるに、良薬口に苦し、忠言耳にさかふ、先言なり。

 これによって讒者の実否を正されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶるに能はず、いたずらに数日を送る。この時に当たって、永く恩顔を拝し奉らず。骨肉同胞の義己に絶え、宿運極めて空しきに似たるか。將亦先世の業因の感ずるか。悲しきかな、この條、故亡父尊霊再誕し給はずんば、誰人か愚意の悲嘆を申し開かん、何れの人か哀憐を垂れんや。

 事新しき申し状、述懐に似たりといへども、義経、身体髪膚を父母に受け、いくばくの時節を経ずして、故頭殿御他界の間、孤となって、母の懐の中に抱かれて、大和国宇陀郡に赴きしより以来、未だ片時も安堵の思いに住せず。かひなき命をながらふといへども、京都の経廻難治の間、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖として、土民百姓等に服仕せらる。

 然れども交契忽に純熟して、平家一族追討の為に、上洛せしむる手合に、先づ木曽義仲を誅掠の後、平家を攻め傾けんが為に、ある時は峨々たる巖石に、駿馬に鞭打って、敵の為に命を亡ぼさん事を顧みず、或時は満々たる大海に、風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めん事を痛まずして、屍を鯨睨のあぎとにかく。しかのみならず甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、しかしながら亡魂の憤りを休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外は、他事なし。あまつさへ義経五位の尉に補任の條、当家の重職何事かこれにしかん。然りといへども、今憂へ深く嘆き切なり。

 仏神の御助にあらざるより外は、いかでか愁訴を達せん。これによって、諸寺諸社の牛王宝印の裏を以て、全く野心を挿まざる旨、日本国中の大小の神祇冥道を請じ驚かし奉りて、数通の起請文を書き進ずといへども、なほ以て御宥免なし。それ我が国は神国なり。神は非難を受け給ふべからず。頼む所他にあらず。ひとへに貴殿が広大の慈悲を仰ぎ、便宜を窺ひ、高聞に達せしめ、秘計を巡らして、誤りなき旨を宥せられ、放免に頂らば、積善の余慶家門に及び、栄花永く子孫に伝へ、もって年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に尽くさず、しかしながら省略せしめ候ひおはんぬ。
                         義経    恐惶謹言

 元暦二年六月五日の日 
          源義経         進上   因幡守の殿へ”

 子安観音 (清水の舞台から望む)

 東山区下山町

 順路 清水寺の境内、音羽の滝を南へ5分

 義経の母・常盤御前が、牛若ら我が子三人の加護をお祈りしたと伝えられています。”平治物語 下巻 第6話 参照 ”

 聖武天皇・光明皇后御願とされますが、詳しい事はわかりません。建物は江戸時代初期に再建されたもので、元は、清水寺の仁王門の横に建って居たそうです。
 千手観音を御祀りして、文字通り安産の御利益あらたかにて、市民の信仰篤いお寺です。
あらすじ

 元暦2年5月7日(1185)九郎太夫判官義経、大臣・宗盛卿親子を伴って、すでに都を立ちました。粟田口を抜けて逢坂の関へ懸かれば、もう雲居(帝の住まわれる都の事)には、遠く隔てられ、二度と戻れぬ都の空です。関を流れる清水を見て、宗盛卿、泣く泣く歌を詠まれました。
              
          
都をば今日をかぎりの関水に
                またあふ坂の影やうつさん


 道すがら、心細げにおはすのを、心優しき判官、様々にお慰め申し上げるのでした。宗盛卿が、
 
 「義経殿、如何にもして、この命、御助け願えぬか」と、申されますと、判官は、
 
 「その御命失われる事は、余も有りますまい。喩えそうなっても、義経がお側にいる限りは、今度の勲功に替えて、御命お助け致しましょう。さりながら、遠き国・遥かの島へ移される事は必定です」と、申しますと、
 
 「たとえ、蝦夷が千島なりとも、命さえ有れば」と、申され、誠に口惜しい限りです。
 
 日数を重ねて、同じく23日、判官が鎌倉へ下り着くと聞いた梶原平三景時、判官に先立って、頼朝公に申しますには、

 「今や日本国は、余す所無く、殿に従い付きました。そうは申しながら、御弟・九郎太夫判官殿こそ、終には、殿の御敵となりましょう。一を聞いて萬を覚ると申しますが、”一ノ谷を山の上から、逆落としせねば、東西の木戸も破れなかったであろう。

 一の谷の勲功は、この義経に有り。されば、討ち死にも、生け捕りも、先ずは、この義経に見せるべき所を、物の役にも立たぬ、兄の頼範殿に見せるとは何事ぞ。本三位中将重衡殿を、急ぎこれへ連れて参れ。

 叶わぬのなら、この義経が、貰い受けに参る。”等と申されて、すでに大騒ぎとなる所を、この景時が計らって、土肥と示し合わせ、本三位殿を土肥次郎実平の元に預けて、やっと鎮まりました。 よくよく用心なされよ」と申します。

 頼朝公は、「九郎が、今日鎌倉へ入る。各々用意いたせ」と申し、大名小名が馳せ集まって、たちまち、数千の軍勢で膨れ上がりました。

 頼朝公は、軍兵でもって七重八重に囲ませ、自らはその中に居ながら、

 「九郎は悪賢くて、素早く機敏なれば、この畳の隙間からでも、這い出す様な男なり。さりながら、この頼朝、そうはさせぬぞ」と、申しました。 

 その上、金洗沢に関を設けて、そこで宗盛卿父子を受け取り、九郎判官を腰越へ追い返したのです。 訳も告げぬまま追い返された判官は、

 「これは何とした事ぞ。去年(こぞ)の春、木曽義仲を討ち果たして以来、今年の春、平家も悉く滅ぼし、内侍所・璽(しるし)の御箱もつつがなく返し奉った上、御大将の宗盛卿を生捕りにして、此処まで下って参った私に、喩え如何なる異変が起ころうとも、一度も逢わぬと言う道理があろうか。

 当然、九国の惣追捕使に任ぜられ、山陰・山陽・南海道の何れかを御預りして、一方の堅めを任されるであろうと思ひしが、さにあらず、僅かに伊予の国を知行せよと言われ、鎌倉へも入られずして、腰越へ追い返されるとは、これ如何に。

 およそ、日本国中を鎮めたのは、義仲・義経が功績にあらずや。例えば、2人の子の父が同じで、先に生まれたのを兄と言い、後に生まれたるを弟と言うのではなかったのか、この思いを天は知らず、いわんや誰かが知るはずもなし。もはや述べる言葉も知らず(?)」と、呟きましたが、その甲斐も有りません。

 判官は、泣く泣く一通の書状をしたためて、鎌倉の参謀・因幡守 大江広元の元へ遣わしました。その書状に曰く、

 ”源義経、恐れながら申し上げます意趣は、昨年の春、兄上の代官の一人に選ばれ、帝の命を受けて、朝敵を平らげ、かつ我が源氏年来の恥辱もそそぎました。当然、その功により勲賞を賜るべき所、我が意に反して、恐ろしき告げ口に遭い、莫大なる勲賞は無視され、罪無くして、お咎めさえ受ける身となったのです。しかし、私は兄上がお怒りになる様な、如何なる罪を犯したと言うのでしょう。とは言え、兄上の御勘気が解けぬ間は、ただ紅涙に咽ぶばかりです。

 昔から、良薬口に苦し・忠言耳に逆らうと申しますが、告げ口の真偽は糺さなければなりません。しかし、私は鎌倉へ入る事も許されず、真意を述べる機会もなくて、ただ、いたずらに空しい日を送るばかりです。このまま、兄上の御尊顔を拝さない事にでもなれば、兄弟の縁も、最早これまでか、骨肉同胞の義も絶えるのか、はたまた、これも前世の因縁か等と考えるばかりです。この上は、今は亡き父の御霊が、再びこの世に生きてお帰りにならぬ限り、私のこの悲しみを聞いて下さる御方とても有りませぬ。

 今更申しても愚痴になりますが、私はこの世に生を受けて、間もなく父を失いました。孤児となった私は、母の懐に抱かれ、大和の国・宇陀の里に逃れてこの方、未だ一日たりとも、安住の地を得たことはありませぬ。生きて甲斐なき命とは申しながら、都にては人目をはばかって、身を諸処に隠し、遠国・辺境の地にては、土民百姓共に召し使われながら、生き永らえて参りました。

 しかし、そんな私にも千載一遇の幸運が巡って来たのです。私は平家一門追討の為に上洛し、手始めに、木曽義仲を討ち果たしました。その後は、平家を攻め傾けんと、ある時は、峨々たる岩石に駿馬を鞭打って、命も顧みず、ある時は、満々たる大海に、風波を凌ぎ、身を海底に沈むのも厭わず、屍(かばね)を鯨の歯牙に掛からんとすれど、これを恐れず。しかのみならず、兜を枕とし、弓矢を生業(なりわい)として戦って来た私の本意は、ひとえに、我等が先祖の魂の憤りを休め、年来の宿望を遂げんが為で、他意は毛頭ありませぬ。

 その上、義経が五位の尉に叙せられた事は、源氏にとっては稀代の誉れでは有りませぬか。今、私は憂いと嘆きに沈んでおります。神仏のお助け無くしては、この愁いを払うことは出来ませぬ。国中の神仏に誓って、私に野心が無いことを、数通の起請文にしたため、兄の元へ送りました。なれど、兄上のお許しは頂けませんでした。

 外に頼む人とて無く、今はひとえに貴殿の広大なる慈悲にお縋りするばかりです。折を見て、私のこの切なる思いを、兄上へお伝え願い、取りなしてもらえませぬか。幸い兄上の御許しが得られ、無罪放免となったならば、その栄華は子々孫々伝えられ、私の愁いは忽ち霧消して、一期の安寧を得られましょう。                        
                               恐惶謹言   義経
     元暦2年6月5日      源義経          因幡守(大江広元)殿へ” 
(注)

 と書かれました。

 (注) 因幡守(大江広元)・・・(いなばのかみ・おおえ ひろもと)と言う方は、頼朝のブレーンの一人です。鎌倉幕府の国作りを立案したのもこの方です。頼朝の先祖・八幡太郎義家も、広元の先祖(大江匡房)から兵学・戦略を教わりました。
 
    
    伊豆半島から相模灘を望む 平成16年4月

 吾妻鏡(鎌倉幕府の記録書)から

  @鎌倉幕府が製作した記録書”吾妻鏡”の中に、次の様な、義経に関する記述が有ります。

 
「平治2年正月、襁褓(きょうほ)の内に於いて、父の喪に逢ふの後、継父一条大蔵卿長成の扶持に依って、出家のために鞍馬(写真)に登山す。成人の時に至り、頻りに会稽の思いを催し、手自ら首服を加へ、秀衡の猛勢を恃み、奥州に下向し、多年を歴るなり。而して今武衛宿望を遂げらるるの由を聞き、進発せんと欲するの処、秀衡強ちに抑留するの間、密々彼の館を遁れ出でて首途す。秀衡、臨悋惜の術を失ひ、追ひて継信・忠信兄弟の勇士を付け奉る」
 
(襁褓・・・おむつ 父の喪・・・義朝の死  秀衡・・・藤原秀衡  武衛・・・頼朝  奥州・・・平泉) 

 
吾妻鏡に記録された内容と、腰越状や、平家物語の中で語られる内容を比較すると、義経に関する記述は、ほぼ一致しており、物語の作者は、義経の生い立ちから、黄瀬川の頼朝との対面までは、これらの記録を元に、書いたものと推測されます。或いは、吾妻鏡が模倣したのかもしれません。

 Aまた、鎌倉入りを拒否された義経の心情が、次の様に記してあります。

 「廷尉(注)の日来の所存は、関東に参向せしむれば、平氏を征する間の事、具に芳問に預り、また大功を賞せられ、本望達すべきかの由、思い儲くるのところ、忽ち以って相違し、あまつさえ拝謁を遂げずして、空しく帰洛す。その恨みはすでに古き恨みより深し」
 (注)廷尉(ていい)・・・・義経の事
紫式部の実
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