頼朝公が差し向けた刺客土佐坊
     
      時代祭 静御前 
 
 
静御前のこと

 兄、頼朝公と仲違いした判官義経に向けて、刺客・土佐坊昌俊が放たれました。京の堀川館では、これを迎え撃つために、弁慶・静御前等が対峙しています。

 この物語に、はじめて静御前が登場し、機転の利く女として描かれています。但し、登場するのは今回限りで、彼女が花の吉野で捕らえられて鎌倉へ移され、頼朝公の前で”しづやしづ・・・”と舞ってみせる場面は、後の時代に創作されたものだと言う事です。
 静御前の今様

”吉野山 峯の白雪 ふみわけて
 入りにし人の あとぞ恋しき
  
 しづやしづ しづのをだまき
 くりかへし 昔の今を
   なすよしもがな 
   
            枚方市 重田氏撮影
 下巻十二 四 「土佐坊斬られの事」
 
 さる程に、判官は、鎌倉殿より大名十名付けられたりけるが、内々御不審を蒙り給ふと聞へしかば、心合わせて、一人づつ皆下りはてにけり。兄弟なる上、殊に父子の契りをして、一の谷壇ノ浦に至るまで、平家を攻め亡ぼし、内侍所霊の御箱、事故なう都へ遷し入れ奉り、一天を鎮め、四海を澄ます。
 
 勧賞行はるべき所に、何の子細あってか、かかる聞こへのありけんと、上一人より下万人に至るまで、人皆不審をなす。この故は、この春攝津国渡辺にて、逆櫓立てう立てじの論をして、大きに嘲かれし事を、梶原、遺恨に思ひ、常に讒言して、つひに失ひけるとぞ、後に聞へし。




鞍馬寺 木の根道

義経が天狗を相手に、この山道を上り下りして、剣術の修業に励みました。

「吾妻鏡」の記述から

 吾妻鏡は鎌倉幕府が製作した日記風の記録書ですが、頼朝が義経討伐の為都へ大名を差し向けたことや、刺客土佐坊昌俊が鞍馬へ逃げ込んだこと、六条河原にて斬られたこと等が書かれています。

 文治元年(一一八五)十月大廿五日甲戌。今曉、領状の勇士を差し京都に発遣被る。 先ず尾張、美濃に至る之時、兩國の住人に仰せ、足近、洲俣已下の渡々を固め令む可し。 次で入洛の最前に、行家、義経を誅す可し。敢えて苦を斟酌する莫れ。若し又兩人洛中に住せ不れ者、暫く御上洛を待ち奉る可し。者ば、各鞭を揚ぐと云々。

 文治元年(一一八五)十月大廿六日乙亥 土佐房昌俊并伴黨三人自鞍馬山奥豫州家人等求獲之今日於六條河原梟首云々。 

 文治元年(一一八五)十月大廿六日乙亥。土佐房昌俊并びに伴黨二人、鞍馬山の奥より、豫州の家人等之を求め獲る。今日六條河原に於いて梟首すと云々。

 *吾妻鏡の記事は、 鎌倉歴史散策@加藤塾別館、”吾妻鏡入門から、許可を得て登載しました。

 あらすじ

 さる程に、都へ上る判官には、鎌倉殿より10名の大名が付けられました。その故は、鎌倉殿が判官に、内々御不審をいだかれたと言う事にて、心を一つにした大名は、判官に気付かれぬように、一人づつ上って行きました。

 そもそも二人は兄弟なる上、父子に等しい契りを交わして、一の谷から壇ノ浦に至るまで、平家を亡ぼし、内侍所の御箱を、事無く都へ遷し奉って、天下を平らげ、日本国を鎮められました。

 当然、判官には勧賞が与えられるべき所を、如何なる子細があって、かような噂が聞こえて来たのでしょう、上は帝から、下は万民に至るまで、人皆不審を抱くばかりです。

 その故は、この春、攝津の国・渡辺の湊(大阪市)にて、逆櫓を立てる、立てないの論争に及び、判官に大きに嘲笑われた梶原が、これを遺恨に思い、事有るごとに讒言(中傷・誹謗)して、遂には鎌倉殿の信を失ったと、後には聞こえて来ました。 

 鎌倉殿、判官に勢の付かぬうちに、一日も早く討手を上らせんと思われましたが、数多の大名を上らせれば、宇治・瀬田の橋も引き払われて、都を騒がすのも悪しかりなん、如何がせんと思案されていました。

 ここに土佐坊昌俊を召して、
 「和僧
(注1)、都へ上り、相談事でもある態に謀って討て」と申せば、土佐坊これを承って、宿所にも帰らず、真っ直ぐ京へ駆け上がったのです。

 9月30日、判官、土佐坊が京へ上った由を聞き、これを召して、

 「いかに土佐坊、鎌倉殿より賜った御文はないか」
 「さしたる用もなければ、御文は御座らぬ。御言葉にて仰せられるは、”作今、都に騒動の鎮まるは、貴殿がおはす御蔭なり。相構えてよくよく守護し給え”、と仰せつかり申した。」

 
 「まさか、そうでは有るまい。この義経討ちに上った御使いであろうが。” 数多の大名を上らせれば、宇治・瀬田の橋も引き払われて、都を騒がすのも悪しかりなん。和僧、都へ上り、相談事でもある態に謀って討て”と、仰せられたであろう。」

 「めっ、滅相もない。何故、左様な事を申される。拙僧
(注1)、いささか思う旨あって、宿願叶えんとて、熊野参拝への道すがら、都へまかり越したまでに御座る」

 「この義経、景時ごときに告げ口されて、鎌倉へも入れられず、追い返されたのも知らぬと申されるか」
 「それこそ、如何がしたる事やらん。拙僧の全く預り知らぬ事にて、如何に申せば良いものやら。ただ、この昌俊、貴殿のことを、全く腹黒うは思い奉らぬ。」

 判官にすっかり手の内を読まれた昌俊、しどろもどろになりながら、神仏に誓い、決して不忠無き旨の起請文
(注2)を差し出すと申します。

判官、 「どうせ鎌倉殿には、何をしても好くは思われぬこの身よ」と、益々機嫌を損なえば、土佐坊、何とかこの場を逃れんとて、7枚の起請文を書き、或いはこれを焼いて飲み、或いは神社の宝殿に納めるなどして、やっと許しを得、あたふたと帰って行ったのです。
 宿所に帰った土佐坊、早速、大番所の衆
(注3)を駆り集めて、その夜、押し寄せんとしました。

 判官、都には白拍子・磯の禅師が娘、静
(写真)と申す女を篭愛しておりました。この静、判官が都にある内は、片時もお側を離れた事が有りません。この者が申すには、

 「大通りには、武者が溢れ返っております。今時、御所には催しも無く、こんなに大勢の武者が立ち騒いで、一体何事でしょう。

 これはきっと、昼間見えた御坊の仕業に相違ありません。人を遣って様子を探らせましょう」とて、昔、清盛公が召し使っていた禿童
(かぶろ・卷一 三付「禿童の事」参照))を差し向けました。

 しかし、数刻が過ぎても禿童は帰って来ません。子女では心許なしとて、今度は下郎を走らせました。やがて、駆け戻った下郎の申すには、

 「二人の禿童は、道端に切り捨てられて居りました。土佐坊の宿所には、馬に鞍置いた武者が寄り集まって、今にも寄せ来る気配です。御坊が熊野詣でをされる気配は微塵も有りませぬ」、との申し状に、

 判官、「さもありなん。」とて、太刀を引っ下げ駆け出しますと、静が素早く鎧を着せ掛けました。表に飛び出した判官、鞍置いた馬に飛び乗り、

 「門を開けよ。」とて、門前に出でて、今や遅しと待ち受ける所に、夜半になって、土佐坊の勢50余騎が押し寄せて、鬨の声をどっと挙げたのです。

 鐙(あぶみ)を蹴って伸び上がった判官、
 「夜討ち・朝駆けいずれにても、この義経を易々と倒せる者が、日本国に有ろうか」と、大音声を発しながら、唯一騎、敵陣へ駆け入りますと、驚いた軍勢は、蹄(ひづめ)に掛けられては叶わぬと、思わず道を空けてしまいました。

 やがて、夜討ちの知らせを聞いた、伊勢の三郎・佐藤四郎忠信・江田源三・熊井三郎・武蔵坊弁慶等の一騎当千のつわもの共が、あちこちの宿所から掛け付けて、その軍勢は忽ち6,70余騎に膨れ上がりました。

 土佐坊、心ははやれど、味方の武者が次々に討たれ、助かる者も少なくて、最早叶わぬとて、有ろう事か、かの鞍馬
(写真)の奥へ逃げ込んだのです。

 鞍馬は言わずと知れた判官ゆかりの地、忽ち荒法師の手に掛かって捕らえられ、判官が元へ引き渡されました。

 「いかに御坊、昼間の誓いを、お主早くも破られたな」
 「仰せの通り、昼間の誓は破り申した」

 「主君・鎌倉殿の命を重んずる余りに、我が身の命を捨てんとする志、誠にあっ晴れ。その心栄えに免じて、和僧の命お助け申そうと思うが如何に」

 「これは口惜しき申し状、助けてくれと申したとて、貴殿が助けてくれるはずも無かろうに。この命、鎌倉殿に奉りてより、既に捨てておるは。その情あるなら、早くこの首斬り給え」と、潔き返答に、やがて六条河原
(写真)にて、その首斬られたのです。
 
 その堂々とした態度を、誉めそやさぬ者は居りませんでした。



 (注1)和僧・拙僧(わそう・せっそう)・・・和僧・・面前の僧に呼び掛ける尊敬語。拙僧・・僧が謙遜して、自らを名乗る言葉。
 
(注2)起請文(きしょうもん)・・・神仏に誓を立てる文。
 
(注3)大番所(おおばんどころ)・・・都の警護のために地方から集められた武者。
 都鳥が舞う冬の六条河原
 何故か、処刑の場として、度々登場する六条河原です。
ここで、多くの武者が命を落としました。
  
  
  源九郎判官義経
     
     白拍子 静御前
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