女武者 巴御前
     
 巴御前の事

 元暦元年正月(1184)、宇治川の戦いに敗れて、義経に追われた木曽義仲以下7騎は、近江の国へ逃れましたが、その中に、巴御前がいました。

 彼女は、木曽谷の中原兼遠、即ち義仲の育ての親の娘です。兄弟の今井四郎兼平・樋口次郎兼光と共に、義朝に追われて木曽に落ち延びた当時2才の義仲と、兄弟同様に育てられました。

 美しいばかりでなく、武勇に優れ、義仲の手足となって、男勝りの働きをしてきました。が、この地で、死を覚悟した義仲に離別されて、只1人何処かへ、落ち延びて行きました。
 時に、28才と言われています。

作者の意図
 ここまで「木曽」や「義仲」などと呼び捨てにしていた作者の信濃前司行長は、第九章からは{木曽殿」と敬称を付けて呼ぶようになりました。作者の気持ちが、次第に木曽義仲に傾いていったのでしょう。
 巴御前  京都時代祭のスナップ

   
 枚方市在住 重田氏 撮影
 下巻 第九「木曽の最期の事」その1

 木曽は信濃を出でしより、巴・山吹とて、二人の美女を具しられたり。山吹は労りあって都に留まりぬ。中にも、巴は色白う髪長く、容顔まことに美麗なり。屈境の荒馬乗の悪所落とし、弓矢打ち物取っては、いかなる鬼にも神にもあふと云う1人當千の兵なり。

 されば、軍と云ふ時は、札よき鎧着せ、強弓・大太刀待たせて、一方の大将に向けられけるに、度々の高名肩を双ぶる者なし。されば、今度も、多くの者落ち失せ、討たれける中に、七騎が中までも、巴は討たれざりけり。

     
     巴御前 供養塔 ・義仲寺
あらすじ

 木曽義仲は、信濃を出る時、二人の美女を伴って来ました。巴御前と山吹です。山吹は不調を訴えて、都に伏せっています。中にも、巴御前は色が白く髪長くして、容貌も優れた女です。その上、荒馬を乗りこなして、弓矢を持たせれば、まるで鬼神の様な働きをする並び無き女武者です。

 そこで義仲は、戦と聞けば彼女に派手な鎧兜を着せ、強弓・大太刀を持たせて、一方の大将に仕立てました。巴は、度々の戦いに高名を立てて、その働きには肩を並べる者もいませんでした。さればこそ、都の戦いにて、木曽兵の多くが落ち失せる中、巴ばかりは討たれもせずに、七騎の中に残ったのです。

 戦いに敗れた木曽が、長坂(京都市北区・京見峠を経由して若狭へ抜ける鯖街道の一つ。)を越えて、丹波路へ落ちたと聞こえ、また、龍華越え(比叡山越え)から、北国へ逃れたとも聞こえました。しかし、義仲は今井四郎兼平の行く末の覚束なさに、取って返して瀬田へと落ちたのです。

 一方、八百余騎にて瀬田を堅めていた今井も、大手の鎌倉勢・蒲の冠者頼範に散々に討ち破られて、その勢今や五十騎ばかりとなっておりました。

 旗を巻かせた今井は、我が主・
木曽殿の身の覚束なさに、都の方へ駒を進める程に、打出の浜(次頁写真にて、同じ思いの木曽殿に落ち合ったのです。中一町ばかりで互いにそれと知って、主従、駒を速めて寄り合いました。

 木曽殿、今井の手を取って申すには、
 「この義仲、六条河原にて、何度も討ち死にしょうと思ったが、汝が行方の覚束なさに、多くの敵に後ろを見せて、ようやく、ここまで逃れてきた」、と言えば、今井四郎、
 
 「殿の御気持ち、誠に忝のう存じます。この兼平も、瀬田にて討ち死せんと、何度も覚悟しましたが、殿の行方が覚束なくて、ここまで逃れ参った次第です」、
 「幼少の頃、死なば一緒と互いに誓った約束は未だ朽ちずか」、 
 
 「義仲の勢、この辺りの山林に逃れて来たはず、汝が旗を揚げよ」と木曽殿、今井が旗をうち振りますと、木曽殿の言葉通り、あちこちから三百騎余りが寄り集まりました。これを見た木曽殿、大層喜んで
 
 「この兵にて、最期の戦をせん。あそこに群がっている大軍は、誰が軍勢か」、
 「甲斐の一条次郎が軍勢と見受けます」、
 「その勢、如何程」、
 「六千余騎の大軍です」、
 「それは良き相手、どうせ死ぬこの身ぞ、大軍の中でこそ討ち死にせん」と、真っ先に進みました。

 木曽殿、その日の装束には、赤地の錦の直垂に唐綾縅しの鎧着て、いか物作りの太刀を帯き、鍬形打ったる甲の緒を締め、24さいたる石打ちの矢の、その日射て少々残ったるを負い、滋籐の弓の真ん中握り、音に聞こえた木曽の鬼葦毛と云うの馬に、金覆輪の鞍置いて乗りながら、鐙(あぶみ)踏ん張って立ち上がり、大音声を揚げて、
(注1)
 
 「日頃から、噂には聞いているであろう木曽の冠者
(注2)。今は目にも見よ、左馬頭兼伊予守・朝日の将軍源義仲なるぞ。甲斐の一条次郎とこそ聞いた、義仲討って、兵衛佐・鎌倉殿に見せよや」と、喚いて駆けました。

 これを聞いた一条、
 「今の名乗りを聞いたか、あれはまさしく木曽殿、漏らすな若党、討てや者共」と、たちまち、木曽勢を体勢の中に取り込めて、我こそは討ち取らんと進んで来ます。木曽3百余騎が、6千余騎が中に駆け入って、縦様・横様・蜘蛛手・十文字に
(注3)、駆け破った時には、その勢わずか50騎余りになっていました。
 
 そこを駆け破り行く程に、土肥次郎実平の勢2千騎が行く手を遮りました。それもどうにか打ち破り、あそこで4、5百、ここにて2,3百ばかりと、駆け破り駆け破り行く程に、とうとう主従5騎ばかりとなりました。その5騎の中に、巴御前も討たれずに残っていたのです。


 木曽殿、巴を側に呼んで、
 「汝は女なれば、これよりいずこへも、いち早く落ち行け。義仲は、ここにて討ち死にすると決めた。もし、人手に掛からん時は自害せん。義仲最期の戦いに、女を連れていたなどと世に聞こえたならば、口悔しいではないか」と、申しました。

 巴は、しばし、木曽殿の側から離れるのを躊躇っていましたが、木曽殿の強い口調に諦めたのか、

 「よき敵出で来よ。殿に最期の戦をして見せん」とて、手頃な敵を探す内、丁度そこに、武蔵の住人・御田八郎師重と申す太刀の強い者が、30騎余りの手勢を引き連れて、立ち向かってきました。

 巴は、御田勢の真っ直中に駆け込み、先ず、大将の御田八郎に挑んで、相手の馬に鞍を押しつけ、御田をむんづと組んで引き落とし、鞍に押しつけた首をねじ切って、投げ捨てました。その後、鎧兜を脱ぎ捨てて、東国目指し落ち延びて行ったのです。


 (注1) ・赤地の錦の直垂(にしきのひたたれ)・・・・・・下地が赤い織物に、5色の糸で模様を織り出したヨロイの下に着る衣服。錦は大将のみが用いた。(直垂は平服としても用いられた。)
      ・唐綾縅しの鎧(からあやおどじ))・・・・中国から渡来した現在の綸子(りんず)の様な生地で綴ったヨロイ。
      ・いか物作りの太刀・・・・・・銀や毛皮を使って、いかめしく見えるように外装を凝らした太刀。
      ・鍬形打ったる甲くわがた)
・・・・・正面にクワガタムシの角に似た飾を施したカブト。
      ・24さいたる矢
・・・・・・・・矢が24本入りの箙(えびら)を背負っている。
      ・石打ちの矢(いしうちのや)
・・・・・・鷹や鳶の尻尾の羽根の硬い部分を矢羽根にしたもの。
      ・葦毛と云うの馬(あしげといううま)
・・・・・馬の毛色。白毛に黒、褐色の混ざった毛。
      ・金覆輪の鞍(きんぷくりんのくら)
・・・・・縁を金色の金具で縁取りした鞍。
      ・鐙(あぶみ)
・・・・・・・乗馬した時に、足を乗せる所。
 (注2)  ・冠者(かんじゃ)・・・・位が六位で役職に就かない人。若者の総称。
 
(注3) ・縦様・横様・蜘蛛手・十文字(たてざま・よこざま・くもで・じゅうもんじ)・・・太刀を自由自在・縦横に振り回す事、戦いの場面で、暴れ回る武者の描写によく使われる表現です。

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