俊寛の絶食死

 法勝寺(ほっしょうじ)復元図 左京区岡崎法勝寺 京都市動物園内
            交通機関 市バス「動物園前」下車 南へ徒歩10分
                   地下鉄東西線「東山」下車 東へ徒歩10分

 白河天皇御願の法勝寺跡は、丁度動物園の中にあります。九重の塔など豪壮な建物が立ち並んでいましたが、平家が壇ノ浦で亡んだ直後の大地震で崩壊しました。
 物語では、当時俊寛僧都が法勝寺の執行(しゅぎょう・寺の事務を総括する役職)に就いていました。
   
 有王の来訪に驚喜する俊寛
 法勝寺(ほっしょうじ)周辺 上の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。

 

http://www3.ndl.go.jp/rm/

 法勝寺跡界隈:


 
(撮影場所 平安神宮、京都市美術館、京都市動物園周辺)

 
俊寛僧都が事件を起こした頃は、この辺り一帯に、法勝寺(ほっしょうじ)、円勝寺、成勝寺等、「勝」の付く、いずれも皇族御願の寺が6軒、軒を連ねていました。総称して「六勝寺」といいます。

 中でも、法勝寺は、白河天皇の御願で建てられ、「天皇の氏寺」と、呼ばれていました。なお、写真の
成勝寺は崇徳天皇が建立されたものです。

  そのほか、
九重の塔(高さ80メートル)が建っていたそうで、藤原氏等の巨大化した権力に対抗して、天皇方が建立されたのかも知れません。

 慈円の愚管抄の一節に、
「白河に法勝寺たてられて、国王のうぢでらにこれをもてなされけるより、代々みなこの御願をつくられて、六勝寺といふ白河の御堂、大伽藍、うちつづきありけり」と書かれています。
 
 今は、跡形も無くなって、代わりに平安神宮や美術館などの、色々な文化施設が、建ち並んでいます。
なお、法勝寺の碑は、動物園の中にあります。
(六勝寺の詳細については、下巻第49話参照のこと)

方丈記に書かれた治承4年の”つじ風のこと”
 
 鴨長明の著した方丈記にも、当時のつじ風の記述があります。内容は平家物語の語りとほとんど変りが有りません。但し、俊寛が憤死したのは、治承3年と思われ、1年のずれがあります。

 ”また治承四年卯月二十九日の頃、中御門京極の程より、大きなる辻風おこりて、六条あたりまでいかめしく吹きける事侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。桁柱ばかり残れるものあり。また門の上を吹き放ちて、四五町がほどに置き、・・・・桧皮葺、板の類、冬の木の葉の風に乱るるが如し。・・・”
 法華寺:
 所在地 奈良市法華寺中町
 交通機関 JR奈良駅下車 奈良交通バス「法華寺町」下車 徒歩3分

 元は藤原不比等の住居を、光明皇后が”尼寺”としました。大和三門跡として品格のある寺でしたが、平安遷都後は衰えて、豊臣時代に淀君が再興しました。本堂には観音立像(国宝)が安置されています。


 物語では、俊寛の娘が出家してこの尼寺に入りましたが、下巻27話に登場します横笛もこの寺へ入ります。
上巻 巻三 七 「有王が島下りの事」 より

 
さる程に、鬼界が島の流人ども、二人は召し返されて都へ上りぬ。今一人残されて、憂かりし島の島守となりけるこそうたてけれ。
 
 僧都の、幼うより召し使はれける童あり。名をば有王とぞ申しける。鬼界が島の流人ども、今日すでに都へ入ると聞えしかば、鳥羽まで行き向って見けれども、我が主は見え給はず。

 「いかに」と問えば、「なお罪深しとて、、一人島に残されぬ。」と聞き、「今はいかにしてもかの島へ渡って、御行方をも尋ね参らせばや」と僧都の姫御前に御文賜って、父にも母にも知らせず、三月の末に都を立って、多くの波路を凌ぎつつ、薩摩潟へぞ下りける。

 薩摩よりかの島へ渡る船津にて、有王を人怪しめ、着たるものを剥ぎ取りなどしけれども、少しも後悔せず。

 商人船に乗って、件の島に渡って見るに、都にて聞きしは数ならず、田もなし。畠もなし。里もなし。村もなし。人はあれども、云ふ詞をも聞き知らず。山の方のおぼつかなさに、はるかに分け入り、峯によぢ、谷に下れども、白雲跡を埋んで、往来の道もさだかならず。沖の白州にすだく浜千鳥の外は、跡問ふ者もなかりけり。

 或る朝磯の方より、蜻蛉なんどの如くに痩せ衰へたる者、よろぼい出できたり。本は法師にてありけりと覚えて、髪は空様に生ひあがり、つぎめ現れて皮ゆたひ、身に着たる物は、絹・布の分も見えず。我餓鬼道などへ迷ひ来るかとぞ、覚えたる。


 
 あらすじ:

 流罪を許された丹波少将成経と康頼入道は、無事京の都へ帰ってきました。
哀れなのは、一人島に残されて島守となった、俊寛僧都です。

 僧都には、幼い頃から、可愛がっていた童がいました。 名を有王と申します。

 彼は今日も又、流人が都へ還えされたと聞いて、もしやと思い、鳥羽の渡し
(写真下)まで来ましたが、矢張り俊寛の姿は、見当たりませんでした。

 「如何に」と、問えば、
 「僧都は罪が重くて、一人島に残された」と、申します。

 度々六波羅へ参って聞くのですが、何時御赦免になるのやら、聞き出せそうにも有りません。そこで、親兄弟を亡くして、ただ一人、人目を忍んでお住いの僧都の娘を尋ね、

 「今回の船にも洩れて、お帰りにはなりませんでした。今は如何にもして島へ渡ろうと存じます。文を賜って参らん」とて、娘の文を携え、はるばる薩摩潟へやって来たのです。

 島へ渡ろうと波止場に着いた有王は、人に怪しまれて、身ぐるみ剥がれましたが、それにもめげず、娘御前の文ばかりはと、髪に隠して、商人の船に乗り、うわさに聞いた島に辿り着きました。

 聞くと見るとでは大違い、都のうわさなど、物の数では有りません。
 田も無く、畠も無し。村もなく、人は住めども言葉は通じません。

 それでも、会う人毎に、僧都の行方を尋ねて見ました。が、ただ皆、首を横に振るばかりでした。中に心得た者がいて、

 「さあねえ、その様な者が3人居たが、2人は都へ召し返されて、残された一人は、あちこち彷徨い歩いていたが、今は行方知れずよ」と申します。

 仕方なく、勝手の分からないままに、あちこちの山に分け入って、峯をよじ登り、幾つも谷を下りましたが、人の通う道とて無く、白い雲に行く手をさえぎられて、人の影さえ見当たりません。浜辺に降りて見ても、磯の浜千鳥が鳴くばかりでした。

 ある朝、今日もまた、当てのない人捜しに出かけようとしますと、磯の方から、まるでトンボの様に干からびた者が、よろばい出て来ました。

 元は、僧侶のようですが、髪が薄汚く伸びて、皮膚がたるみ、骨が突き出して、着ている物はといえば、絹と綿の判別さえ付かない程に汚れています。片手に荒海布(あらめ)を、もう一方には魚を引きずる様に持ちながら、よろよろ歩いております。都では今まで数多の乞食は見ましたが、これ程の乞食は見たこともありません。

 釈迦は、”諸阿修羅等居在海辺”と申して、修羅の道は深山や海辺に有りと御教えですが、まるで餓鬼道へ迷い込んだ心地がしました。 いよいよ、その者がよたよたと近付いて来ます。

 もしかして、この者でも我が主を知るやもと思い直し、
 「少々物を尋ねるが」、
 「何か」、
 「都より流されし、法勝寺
(写真)の俊寛と申す御方を知らぬか」と尋ねました。

 余りにも変わり果てた姿に、有王には分かりませんでしたが、懐かしい童の声を、何で忘れられましょう。
  「有王、わしじゃ。わしが俊寛じゃ」と云いつつ、手に持つ物を投げ捨てて、崩れるように、砂の上に倒れ込んでしまいました。
 
 「数多の波路を凌いで、遙々尋ねて来て、やっとお会い出来た私に、今また憂き目をお見せなさるのか」と、膝に抱え上げてかき口説きますと、僧都もようやく人心地ついて、
 
 「有王よ、はるばると、ようも訪ねてくれた。明けても暮れても、思うは都の事ばかり、ただ毎日、恋しき者の夢を見て、近頃ではすっかり疲れ果てて、夢も現(うつつ)も区別がつかぬ。尋ねてきた汝の姿も、まるで夢幻のようじゃ。これが夢なら、覚めた後は如何にせん」

 「夢では有りませぬ。しかし、この有様にて、よくも今まで生き長らえた事こそ不思議に存じます」
 
 「去年、都から二人を迎えに来た時に、あの瀬に身を投げるべきであったが、愚かにも、丹波の少将が、別れ際に残した言葉を信じて、元気な時は、山にも登り、硫黄を取って食物と交換し、食べ物とて無いこの島にて命を繋いできたが、もうその力も失せた。

 近頃は、浜辺の漁師に手を合わせ膝を屈して魚を恵んでもらい、潮干の日には貝を拾って、今日までようよう生きながらえて来たは」
と、僧都、
 「積もる話しも有れば、いざ我が庵へ」、
 
 こんな有様にて、まさか庵が有ろうとは思われません。有王が驚いて僧都の後を辿りますと、そこには竹の柱・松葉の屋根で作られた粗末な庵が有りました。これでは雨露をしのぐのさえままなりません。

 昔は法勝寺の僧都とて、80余カ所の荘園を持ち、4,5百人の僧にかしずかれていた御方が、どうしてこんな憂き目に遭われたのでしょうか。それはきっと、信施無慚の罪
(注)が、今生にて早くも現われたのに相違有りません。

 「貴方が、西八条に捕らわれて後、館に来た役人達が、家財を悉く持ち去り、身内の者も捕まって、謀反の罪にて皆殺されてしまいました。

 奥方と御子達は、鞍馬の奥にて人目を忍んでお暮らしでしたが、若君は貴方様を恋い焦がれて、私に、”有王よ、汝鬼界が島とかやへ、我を連れて参れ”と、よくせがまれました。しかし、そのご子息も去る2月、痘が基で亡くなり、それが為、嘆き悲しんで、泣き伏されていた奥方も、とうとう3月に亡くなられたのです。 ただ一人残されし姫様から、お手紙を預かってきました。」とて、髪の毛に隠し持って来た手紙を手渡しました。


 見れば、「何故、御二人はお帰りになられたのに、父上のみが、一人残されてお帰りにならぬのか。女とは悲しいもの、私が男なら、父上がおわす島へ、只1人でも尋ねても行くものを。有王に伴われて直ぐお帰り遊ばせ」等と書かれています。
 
 僧都、拙い字で書かれた娘の文を有王に指し示しながら、
 「有王よ、これ見よ。娘が文のはかなさよ。汝に連れらて早く帰れと書かれておるは」と、手紙を抱いて泣くばかりです。 何度も娘の手紙を読み返していた僧都は、

 「この島に来て、暦もなければ、月日の経つのも知らず。ただ、花が散り、葉の散るを見ては、3年の春秋を知り、今年は6才にもなるぞと、指折り数えた幼な子が、最早、先立ちて、この世に居ないとは。西八条に召されたその日、あの幼な子が、我も連れて行けとむずかるのを、直ぐ帰るからと宥めながら家を出でしが、あれが、今生の別れだったのか。

 今日まで如何にしても生きんと思ったのは、あれを今一度見んが為なり。今は生きても何になろう。今は只1人残されし娘の事のみ心苦しく思うばかりなり。なれど、娘も生き身なれば、歎きながらも過ごす事であろう。私が生き長らえて、何時までも憂き目を見させるのは、我が身ながらつれなかろう」と、すっかり気落ちされて、娘の事を案じながらも自ら絶食し、ひとえに弥陀の称号を唱え、極楽往生を祈られて、有王がここに渡って、わずか23日と申すに、僧都は貧しき庵の中にて、終には儚くなられたのです。

 御歳37才と言うことです。

 有王、空しき御姿に取りすがり、天を仰ぎ地に伏して、心行くまで泣きましたが、
 「やがて私も御供仕りましょう。しかしながら、この世には、娘御前ばかりが残されて、僧都の後生を弔う人もなし。しばしこの命永らえて、菩提を弔いましょう」とて、しばらくは其処に留まって、庵を切り崩し、松の枯れ枝、葦の枯葉にて覆おい、藻塩の煙となし奉りました。荼毘が終りますと、その骨を拾い首に掛けて、又商人舟を便りに九州の地に着きました。

 それより僧都の御娘の忍んでおはす所に参り、僧都のありし様をこまごまと語りました。
 「出来る事なら、文を御覧に入れれば、良くその御心もお分かりになろうかと存じますが、例の島には硯(すずり)紙もなく、お返事もお書きになれなかったのです。僧都の思し召される事は、ただ空しい事ばかりにて果てられました。

 今は、ただひたすらに、この世を生きれば、あの世とこの世を隔てると言えども、僧都が貴女の声を聞き、御姿をも見えないことが有りましょうか。ただ如何にもして、後菩提を弔いなされませ」と申せば、娘御前は泣き伏すばかりでした。やがて、御歳12才にして奈良の法華寺
(写真)にて出家されて、父母の菩提を弔われたのです。
 有王も俊寛僧都の遺骨をば、高野山に御納めした後、蓮華谷にて出家し全国行脚をしながら主の御霊を弔いました。
 
 このようにして、多くの人が、六波羅に恨みを抱いて亡くなりましたが、平家の行く末は、果たしてどうなるのでしょうか。


  (注) 信施無慚(しんぜむざん)の罪・・・信者の布施をうけながら、功徳を施さず、それを恥じない罪。
                
           
          鳥羽の渡し 現在この辺一体には、酒造場が建ち並んでいます。
 上巻 巻三 八 「つじかぜの事」  より

 さる程に、同じき五月十二日の午刻ばかり、京中につじ風おびただしう吹いて、人屋多く顛倒す。風は、中の御門京極より起こって、坤の方へ吹いて行くに、棟門・平門吹き抜いて、四五町十町ばかり吹きも行き、桁長押・柱などは虚空に散在し、桧皮・葺き板の類は冬木の風に乱るるが如し。

 あらすじ

 さる程に、同じく5月12日の正午の刻ばかりに、京中に辻風おびただしく吹いて、多くの人家が倒壊しました。
 風は中御門京極(現在の中京区河原町丸太町あたり)から、南西の方へ吹き抜けるうちに、数多の門を吹上げ、四,五町ばかりも飛ばして行きます。家の桁・長押(なげし)・柱などが、虚空に散乱して、桧皮や屋根板の類は、まるで冬の木の葉っぱが風に散るようです。
 おびただしく吹く風の音は、かの地獄の業風も、これには過ぎないでしょう。

 家屋の損壊ばかりでは有りません。多くの命が失われました。牛馬の類も数知れず打ち殺されました。

 「これは、只事にあらず、御占いすべし。」とて、神祇官が御占いを立てました。
 「この百日が間に、禄の高い大臣に不幸がある。取り分け天下の大事にて、仏法・王法(仏教界と朝廷)ともに危機が訪れ、いずれ戦乱も起こるであろう」と、神祇官並びに陰陽寮の占いに出ました。

inserted by FC2 system