源三位頼政公の最期
   宇治橋の合戦
 75才の老齢にして一念発起した源三位頼政公は、後白河法皇の第2子以仁王を擁立し、全盛の平家に戦いを挑みましたが、宇治平等院で、敢えなく敗れてしまいました。

 しかし、この戦いが全国の源氏を結集させる基となったのです。
 左の絵は、自決を前に、辞世の句を詠んでいる頼政公を、描写したものです。(画家名 大蘇芳年)

 うもれ木の 花咲く事もなかりしに
     身のなるはてぞ 悲しかりける


 戦いの場面では、作者は色に異常に拘って、武者の装束(鎧・甲・弓矢・太刀・馬)の色を克明に描いています。しかし、武者の体格や表情などについては、ほとんど無頓着です。人物を描くのは、苦手だったのでしょうか。

 写真は、平等院内に祀られている、頼政公のお墓です。
  左上は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。

 http://www3.ndl.go.jp/rm/
上巻第四 巻十一「宮の御最期の事」より

 足利叉太郎忠綱、鐙を踏張り立ち上がり、大音声を揚げて、「昔朝敵将門を亡ぼして、懸賞蒙り、名を後代に揚げたりし、俵籐太秀郷が十代の後胤、足利太郎忠綱、生年十七歳にまかりなる。三位の入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄合へや」と、平等院の門の中へ、攻め入り攻め入り戦いける。

 この紛れに、宮をば南都へ先立たせ参らせ、三位の入道の一類、渡辺党、三井寺の大衆、残り留って防矢射けり。源い三位入道は、七十に余って軍して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心静に自害せんと、渡辺長七を召して「我が首討て」と宣へば、主の生首討たんずる事の悲しさに、「御自害候はば、その後こそ賜り候はめ」と申しければ、げにもとや、思われけん、西に迎ひ手を合せ、声高に十念唱へ給ひて、最期の詞ぞあはれなる。

    
うもれ木の 花さく事もなかりしに
             身のなるはてぞ 悲しかりける

これを最期の詞にて、太刀のさきを腹に突き立て、うつ伏しざまに貫いてぞ失せられける。
その首をば長七が取って、石に括り合せ、宇治川の深き所に沈めてけり。

          宇治川 朝霧橋
あらすじ

 足利又太郎・忠綱 その日の装束には、朽葉(くちば)の綾の直垂に、赤皮の鎧着て、牛の角をあしらった甲の緒を締めて、金作りの太刀を帯き、24本差たる切斑の矢負い、連銭葦毛
(注1)の馬に、、柏木にミミズク描いた金覆輪(注2)の鞍置いて乗っております。 鐙(あぶみ)を踏ん張って立ち上がった足利、大音声を揚げて、

 「昔、朝敵平の将門を亡ぼして、後代に名を残したる俵藤太(藤原秀郷)の子孫、10代の後胤、下野の住人・足利太郎忠綱・当年17歳に罷りなる。かように無位無官の者が、宮に向いて弓引くは、天に矢を放つ心地して恐れ多いことなれども、只今、冥加の程は平家に留まれり。頼政殿の御方で我と思わん人々、寄り合えや。見参せん」とて、平等院の門の中へ、攻め込み戦いました。 大将軍・左兵衛の督知盛の卿、これを御覧じて、

 「渡せや、渡せ」と、下知し給えば、2万8千余騎が皆、渚に馬をうち入れて渡り始めました。さすが流れの速い宇治川も、馬や人に塞がれて、水は川上に溜まり、馬の下を渡る雑人ばらは、膝の上まで濡らさぬ者も多かった程です。

 ここに伊賀・伊勢両国の官兵どもの馬筏が押し破られて、600余騎が激流に押し流されて行きます。萌黄・緋縅・赤縅、色とりどりの鎧が、浮きつ沈みつ漂う様は、まるで神南備山
(注3)の紅葉葉の、峰の嵐に誘われて、竜田川の秋の暮れ(注4)、堰に掛かりて流れて行くのに異ならず、その中に緋縅の鎧着た3人が、網代に掛かって、浮き沈み揺られるのを見た伊豆の守仲綱は、歌を詠まれました。

   
伊勢武者は みなひをどしの鎧着て
          宇治の網代に かかりぬるかな


 これらは皆、伊勢の国の住人にて、黒田後平四郎・日野十郎・乙部弥七という者達です。中にも日野十郎は古兵にて、弓を岩の狭間にねじ立てて這い上がり、後の2人も引き上げて、助けたと言う事です。

 平家の大勢が皆宇治川を渡って、平等院の門の内へ、次々と攻め入ります。 隙に紛れて、ようよう宮を南都へ先立たせ参らせた頼政入道の一類・渡辺党・三井寺の大衆は、ここに踏み止まって矢を射て防いでおりました。

 源三位入道は、御歳70に余りながら軍(いくさ)して、左の膝口に矢を射させ、痛手なれば心静かに自害せんとて、平等院の内へ引き退く所に、敵が襲い掛かって来ました。次男源太夫判官兼綱は、紺地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、金覆輪の鞍置いた白月毛の馬に乗り、父を逃さんが為に、押し返し押し返し防ぎ戦いました。

 が、上総太郎判官が射た矢に、兼綱は内甲を射られて怯む所を、上総守の童・次郎丸と申す大力の者が、兼綱に押し並び、むずと組んでどっと落ちました。兼綱も大力ですから、次郎丸を取って押さえて首を掻き、立ち上がったる所に、平家の兵度も14,5騎が折り重なって、終には兼綱も討たれてしまったのです。

 兄の伊豆守仲綱も散々に戦いましたが、痛手数多負って、平等院の釣殿にて自害しました。その首をば下河辺藤三郎清親が拾って、大床の下へ投げ入れました。

 六条蔵人仲家・その子蔵人太郎仲光も、散々に戦い一緒に討ち死にしました。この仲家と申すは、故帯刀先生義賢
(注5)の嫡子にて、父義賢が討たれて孤児となったのを、不憫に思った頼政入道が、養子として育てたのです。それを恩義に思って入道と一緒に死なんとした、その心こそ、誠に痛ましい限りです。

 頼政入道、渡辺長七・唱(となふ)を召して、
 「我が首討て」と申しますが、主の首を討たなければならない悲しさに、
 「それは思っても見ない事です。御自害遊ばされれば、その後こそ受け賜わりましょう」と申します。 
 「それも道理」、ならばとて入道、西に向かって手を合わせて声高に念仏01辺唱え、最期の歌を詠まれましたが、その歌こそ本当に哀れです。

    
うもれ木の 花さく事もなかりしに
              身のなるはてぞ 悲しかりける


 これを最期の言葉として、太刀の先を腹に突き立て、うつ伏せしざまに貫いて失せられました。この様な時に、歌を詠むなどと言う事は中々出来ない事ですが、若い頃より、一途に好かれた道ですから、最期の時にもなを、お忘れにはならなかったのです。 長七は、その首に石をくくりつけ、宇治川の深い所に沈めました。

 平家の侍ども、如何にしても滝口競をば生け捕りにせばやと窺がいましたが、競も先刻それを心得て、散々に戦った挙げ句、痛手数多負って、自ら腹を掻き切り果てました。

 一方、平家の古兵飛騨守景家は、
 「軍に紛れた宮は、定めて南都へ落ち行かれたに相違ない」とて、鎧兜に身を固めた4,5百騎が、轡(くつわ)を並べて宮の後を追いました。

 すると安の如く、宮が30騎ばかりにて、落ちさせ給うと所を、光明山の鳥居(現山城町)の前にて追い付き奉り、雨の降る如くに射奉ると、 誰のものとは知らねども、矢一つ飛び来たりて宮の左の御横腹に立ち、落馬されてその御首を掻き取られてしまったのです。

  御供申した鬼佐渡・荒土佐・荒太夫・刑部俊秀らも、
 「この命、何時のためにか惜しむべき」とて、散々に戦いましたが、一所に討ち死にしました。

 その中に、乳母子六条亮太夫・は、新野ヶ池へ飛び入り、浮草で顔を覆って震えながら居ますと、敵が目の前を通って行きました。ややあって数百騎が、ざわざわと騒ぎながら帰って行く中に、浄衣を着た死人の首の無いのが、蔀(しとみ)の中からはみ出ているのを見れば、それはまさしく、宮に相違有りません。

 「我死なば、御棺に入れよ」と仰せられた”小枝”とおぼしき笛も、未だ御腰にお差しになったままです。走り出て取り付き奉ろうとは思えども、さすがに恐ろしければ、それも叶わず、敵が皆通り過ぎた後、池より上がって、濡れたる着物を絞りつつ、泣く泣く都へ上りましたが、これを憎まぬ者は居りませんでした。

 
 一方、興福寺の僧兵達七千余騎が甲の緒を締め、宮を迎えに参りましたが、先陣は木津まで進み、後陣は未だ興福寺の南大門に留まっておりました。

 「宮ははや光明寺の前にて討たれ給いぬ」と聞こえて、力及ばず涙を抑えて留まりました。今50町ばかりが、御待ち給わず、討たれなされた宮こそ、誠に口惜しい限りです。


 (注1)連銭葦毛(れんぜんあしげ)・・・白に黒・濃褐色が混ざった毛に、灰色の斑点模様がある馬。
 (注2)金覆輪(きんぷくりん)・・・・・・・・鞍の前後を金で縁取ったもの。
 (注3)神南備山
(かんみやま)・・・・・・奈良県生駒郡竜田の山。麓を竜田川が流れる。
 (注4) 古今集・・・ ” 竜田川 もみぢ葉流る 神奈備の 
                       三室の山に時雨ふるらし ”
 (注5)
 帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)・・・ 源義朝の弟です。兄弟で争って、義朝の子・悪源太義平に殺されました。義賢の次男・駒王丸は、木曽に逃れて、後に木曽義仲と名乗ります。ですから、仲家は木曽義仲の兄なのです。
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