祇王、祇女、仏御前のこと
            
祇王寺(往生院)
 右京区嵯峨鳥居本小坂町

市バス [嵯峨釈迦堂前」下車  徒歩西へ二十分
JR嵯峨嵐山駅前に、レンタル自転車があるので、方々尋ね回るのには、それを利用するのも良策です。


 上記写真は、HP ” 高画質壁紙写真集無料壁紙 ”から、製作者の利用規約に従い、転載しました。
清盛に館を追われて、嵯峨野に逃れる祇王
    画 一勇斉国芳
上の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。

 http://www3.ndl.go.jp/rm/
  祇王寺の概要
 元は、浄土宗の末寺、「往生院」と呼ばれていましたが、一時廃寺となっていたのを、明治になって、当時の知事が、別荘を寄進して改装し、「祇王寺」となりました。
 
 訪れたのは、2月でしたが、庵の庭一面に、黄緑の苔が芽吹いていて、とても印象的でした。
祇王寺の門前の石段を少し上ると、滝口入道が出家直後に住んでいた、滝口寺に通じています。

 
余談ですが、仏御前は、その後生まれ故郷の加賀の国へ帰って余生を過ごしたとも言われています。

 清盛から賜った、近江の国(滋賀県)野洲の土地の水利が悪く、農民が困っているのを知った祇王が、清盛にお願いして、野洲川から水路を引き、灌漑工事をしたので、その後野洲は、米の一大産地になりました。確か野洲のどこかに、祇王ゆかりの建物があったように記憶しています。

 
 祇王寺内
 左から 祇王・清盛・祇女らの木造が祀られています。
上巻 巻一 五 「祇王の事」 より

 太政入道は、かやうに天下を掌の中に握り給いし上は、人の嘲りも顧みず、不思議のことをのみし給えり。

 たとえば、京中に聞こえたる白拍子の上手、祇王を、入道愛し給いし上、妹の祇女、母とじにも、よき屋作ってとらせ、毎月に
百石百貫を送られたりければ、家内富貴して、楽しいこと斜めならず。

 京中の白拍子ども、祇王が幸のめでたき様を聞いて、羨む者あり、嫉む者あり。われも祇と云う文字を名に付けて見んとて、或は祇一、祇二と或は祇福、祇徳など付く者もありけり。

 かくて三年といふに、又白拍子の上手加賀の名をば仏と云う者出で来たり。
 入道、やがて出で合い対面し給いて、「先ず今様一つ歌うべし」と申されければ、
  
  
君を初めて見る時は
       千代も経ぬべし姫小松
     御前の池なる亀岡に
        鶴こそむれていて遊ぶめれ
  
 と歌いければ、見聞の人々みな耳目を驚かす。入道「舞も定めてよからん。一番見ばや。鼓打ち召せ」とて、仏に心を移されけり。
 祇王三年が間住み慣れし所なれば、名残も惜しく悲しくて、障子に、

 
もえいずるも 枯るるも 同じ野辺の草
        
何れか秋に あはではつべき

とぞ書き付ける。
 
 あらすじ(その1)

 天下を掌中に収めた清盛公の乱行は、世間の誹りをも憚らず、どんどん拡大して行きました。 例えば、その頃、京の町には白拍子の祇王・妓女(ぎおう・ぎじょ)と言う、市中一番の売れっ子姉妹が居りました。清盛公は早速、姉の祇王を館に入れて、しきりに可愛がっておりました。それがために、妹・祇女さえ世間では持て囃され、母とぢにも良き家を作って与え、毎月、百石百貫にて召し抱えたのです。

 そもそも、この国に白拍子と申す者が現われたのは、その昔、鳥羽院の頃、島の千載と和歌の前という者がいて、この二人が水干に烏帽子を身にまとい、白鞘の小刀を腰に差して、男舞を舞ったのが始めにて、後には、烏帽子や小刀を着けずに、水干(注)だけで舞うようになりました。
 
 祇王達の事を知った京中の白拍子が、彼女たちの破格の出世を羨んで、中には、「我も付けてみん」とて、祇一・祇福等と、祇の字を付けて、祇王にあやかろうとする者さえ、多数出てきた程です。清盛は、何時も二人を側に置き、二人も夢のような日々を送っていました。
 
  しかし、その幸せも長くは続きませんでした。と申しますのは、祇王が清盛の館に上がって三年後の事です。

 その頃都には、加賀の生まれにて、舞の上手な仏御前と申す名の白拍子が名を馳せていました。年はまだ18才と言うことです。
 
 「わらわも都ではすっかり売れっ子になったけれど、口惜しい事ながら、未だ、今を盛りの清盛様には呼んで頂けない。こちらからお伺いして見ましょう」とて、一人で清盛が住む西七条の館へまかり越しました。 取り次ぎが、

 「今、京では、踊りが一番と噂される、白拍子の仏御前が参っております」と申しますと、
 「遊び女は呼んでこそ参るもの、神だか仏だか知らぬが、ここには祇王が居るものを、即刻追い返せ」と、すげなく断られてしまいました。 仏がうなだれて帰らんとする所へ、
 
 「見ればまだ年端もいかない娘、その様に、すげのう断られては可哀想に御座います。同じ道を歩む者として、お願いで御座います。どうぞ、逢ってやって下さいまし」、と祇王の言葉に、仏は館へ呼び戻されました。
 
 「祇王がたってと望むので、一目逢ってやる。今様(注2)でも歌って見よ」、「承りました」とて、仏は今様を一つ歌い初めました。
     
    
君を初めて見る時は 千代も経ぬべし 姫小松
        御前の池なる亀岡に 鶴こそむれいて遊ぶめれ


と、繰り返し歌いますと、さすが都で名を馳せた白拍子、歌を聞いた人々はその声の美しさに、驚きの声を挙げました。
 
 「ほう、今様はなかなかの腕前だのう。ならば舞の方はどうだ。これ、誰か鼓を打たぬか」とて、ここ一番、舞も披露しました。仏御前は髪姿を始め、眉目形は世に優れ、声も良ければ、舞いが悪かろう筈も有りません。清盛は、すっかり仏に魅せられて、次第に心を移して行ったのです。
 
 「それでは、これにてお暇い致します」と言う仏を押し留めて、
 「待て、ここを出ること相成らぬぞ」、
 「これは何とした事でしょう。わらわは新参者、すでに追い出されし所を、祇王様の御口添えにて召し還えされし身、それでは祇王様に顔向け出来ませぬ。早々にお暇を下されませ」、
 「それは叶わぬ。汝は祇王が事を憚るのか。ならば、祇王を追い出さん」
 
 「それは又、どうして、その様な事を言い出されるのやら。共にこの場に居る事さえ、恥かしく思いますのに、祇王様を追い出して、わらわ一人が召し置かれたならば、祇王様の心の内こそ、如何ばかり恥かしう、口惜しき事でしょう。もし、殿がわらわをお忘れでないなら、後に召されれば、改めて参りましょう。なれど、今日ばかりは暇を賜ります」、
 
 「その儀ならば、相分かった。祇王よ早々に立ち去れ」とて、使いの者に3度も急かされて、同業のよしみで、館に誘い入れた仏御前の為に、祇王は館から追い出されてしまったのです。

 何時かは、こんな日が来るのを覚悟しては居たのですが、まさか、昨日・今日だとは思いもよらない事です。急がれるままに、つい先まで住んでいた部屋を掃き清め、見苦しきものを取り片付けました。庭の樹木の下に宿り、小川のせせらぎと一時の縁を結んでさえ、別れるのは名残惜しいものです。

 まして3年もの間、住み慣れし館ですから、思えば口惜しく、涙が止めども無く流れました。とは言え、何時までもそうしている訳にも参りません。 せめてもの形見にとて、障子に歌を書き付け、館を後にするのでした。

    もえいずるも  枯るるも同じ  野辺の草
              何れか秋に  あはではつべき

 
 我が家に帰って障子の内に倒れ臥し、ただ泣くばかりの祇王に、母とぢと妹の祇女が、
 「如何がなされた」と、尋ねますが、直ぐには返事も出来ません。付き従って来た女に尋ねて、やっと事情が分かったのです。

 その内、西八条の館から毎月送られて来ていた百石百貫の給金もうち切られて、八条の館では、今では仏御前やそのゆかりの者が、祇王らに代わって富み栄えておりました。京中の上下、この噂を耳にして、

 「まことや、祇王が西八条より追い出されたと言うのは、ならば、我こそ、見参して祇王と遊ばん」とて、或いは文を、或いは使いを寄越しましたが、今更、人と遊ぶ気にもなれず、文は打ち捨て、ましてや使いに逢おうともしませんでした。それにつけても、悲しみはいよいよつのり、涙が溢れるばかりです。

 かくして今年も暮れ、明くる春になりますと、入道が元より、使者が文を携えやって来たのです。

  「いかに祇王、変りは無いか。仏御前が退屈しているから、館に参って今様でも歌い、舞を舞って仏を慰めよ」、との文に、祇王、如何申してよいやのら、返事のしようも無くて、ただ涙を抑えて臥すばかりでした。 入道重ねて申すには、

 「何として、祇王は返事を寄越さぬ。参るのか、参らぬのなら、その様に申せ。返答次第では、この淨海(清盛のこと)にも、考えが有るぞよ」と、脅しを駆けて来る始末です。 これを、聞いた母とぢが、泣く泣く祇王に諭しますには、

 「如何して祇王は、ともこうも返事をせぬ。清盛様があの様に怒られぬ内に」と言えば、

 「参るべき道ならば、いずれ参ると申しましょう。なれど、参られぬ道ゆえに、何と返事をすれば良いのやら。御館へ参らねば、清盛様が存念有りと申されるは、我等が都を追い出されるか、この命を召されるか、二つに一つ。例え都を追い出されても、歎くべきにあらず、また、この命召されても、惜しかるべき我が身でも無し。ひとたび嫌われたこの顔を、二度と合わせようとは思いませぬ」、と申して、なおも返事をしません。重ねて母とぢの諭すには、

 「この天が下で生きるには、とにもこうにも、清盛様の仰せに背く事は相成りませぬ。それに、男女の縁の果敢無さは、宿世にて、今に始まった事でも有りません。この世に定め無きものは男女の中、幾ら堅く契っても、やがて別れる中も有り、果敢無い夢と諦めた恋が、永らえる事もあります。いわんや、そなたは遊び女の身、3年もの間、清盛様に想われていたのですから、有り難き御情けと思わねばなりませぬ。

 今度召されて参らなくとも、命を召されることは、よもや、有りますまい。きっと都の外へ出される事でしょう。されば、そなた達は未だ若い故、如何にもなりましょうが、我が身は年老いて、よはい衰えたれば、慣れぬ田舎の暮らしを思うだけでも悲しくなります。御願いですから、この年寄りを都に住まわせて下され。これこそ、今生の親孝行では有りませぬか」と、かき口説かれて、参らじと思い定めた道でしたが、母を苦しめんよりはと、泣く泣く又立ち行く祇王の心の内こそ、何と無慚な事でしょう。一人で参るには、余りにも心憂しとて、祇女と二人の白拍子を伴い、一つ車に乗って、西八条に赴いたのです。
 
 案内された所は、昔とは大違い、遥かに下がった粗末な部屋です。祇王、これは何とした事でしょう。我が身に誤まり無くして追い出され、あまつさえ、この様な粗末な部屋へ上げられる事の口惜しさよ。如何にせんと思いつつ、人には見られじと、抑える袖の隙間より、悔し涙が溢れ出るのでした。

 仏御前がこれを見兼ねて、余りにも哀れと思ったのでしょう、入道に、
 「あれは祇王殿ではないか。あんな所に押し込められて。早々に此処へ召されませ。さもなければ、わらわに暇をお与え下され。直ぐにでも出て行きましょう」と申せども、入道は、
 「それは叶わぬ」、と申して力及ばず。

 やがて祇王の前に表れた入道、
 「如何に祇王、変りは無いか。仏御前が余りに退屈するので、そなた今様でも歌い、舞の一つも舞って、仏を慰めよ」と、祇王の心を知ってか知らずか、上機嫌で所望しました。ここに至っては、清盛に逆らうこともならず、祇王は涙を抑えつつ、即興の今様を歌ったのです。

   仏もむかしは凡夫なり 我等もつひには仏なり
      
何れも仏性具せる身を   隔つるのみこそ悲しけれ
 
 と、泣く泣く二度歌いますと、その場に居合わせた公卿や、並み居る平家一門の公卿・殿上人・諸太夫・侍い至るまで、皆感涙を催すのでした。さすがの入道も、げにもと思われたのでしょう、
 
 「即興にしては、上出来であった。そなたの舞いも見たいが、今日は所用が紛れ込んだ。この後は、召さずとも参って、仏を慰めよ」、と申し、祇王は返事もそこそこに、涙を抑えてて館を後にしました。 
 
 「参らぬと思い定めし道なれども、母の命には背くまいと、つらき道に赴いて、又も憂き目に遭う口惜しさよ。この後もまた、憂き目に遭うのなら、今はこの身を投げましょう」と申せば、妹の祇女も、
 「ならば、わらわも共に身を投げましょう」と言う。 母のとぢ、二人の話を聞いて、泣く泣く重ねて諭すには、

 「左様な事があったとは夢だにも知らず、そなたを館へ参らせた事の恨めしさよ。誠に、そなたの怨むのも理(ことわり)です。但し、そなたも妹の祇女も身を投げて若き娘に先立たれ、年老いたるこの母は、生きてこの後如何がしましょう。我も共に身を投げん。さりながら、未だ死期の来ぬ母に身を投げさせるのは、五逆の罪(注3)にあたりますぞ。この世は所詮仮の宿なれば、どんな辛さも凌ぎましょう。なれど、あの世でも、地獄の道へ赴く事は悲しい事です」と、散々にかき口説きますと、祇王、

 「げにもそれは、母上の申される様に五逆の罪に相違有りませんし。それならば身を投げるのは思い止まって、今はただ都の外に逃れましょう」とて、祇王21にして尼となり、祇女も19にして様を変え、娘が下ろすならこの母もとて、とぢも45にして白き髪を下ろし、嵯峨の奥の山里に柴の庵を引き結んで、娘と共に念仏唱え、後世を願って居りました。
 

 (注1)白拍子のこと・・・ 白拍子と言うのは、客の求めに応じて、歌を歌ったり踊りを舞って、生計を立てていた女達のこと。昔神社の社殿で巫女さんが、白い着物に赤い袴を着て、頭に烏帽子を被り、白鞘の太刀をもって、男舞を舞った姿が余りにも美しかったので、鳥羽上皇の時代に酒宴の席で舞わせたのが始まりです。清盛の時代には、烏帽子と太刀は付けずに、白い着物だけを付けて舞うようになったそうです。(白い着物は狩衣の一種で、水干とも言うそうです)
 (注2)今様(いまよう)・・・当時庶民の間で流行っていた流行歌、後白河法皇が大層好まれた事で有名です。
 (注3) 五逆の罪・・・天の道に背く5つの罪・・父を殺す・母を殺す・修験者を害する・僧の和合を破る・仏身を傷つける
 
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