文覚の過去(袈裟御前の事)
      
寝所を窺う盛遠
        
芳年 画
袈裟御前が祀られている恋塚寺
京都市南区長田町(国道1号線西一筋目)
上の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。
 http://www3.ndl.go.jp/rm/

 私の参考としました平家物語には、文覚上人の出家の原因は、”ある事情で”とのみ書かれておりますが、異本では、貞女の鏡と言われる袈裟御前の逸話が記されていますので、試みに掲載しました。(源平盛衰記より)

 文覚(遠藤盛遠)と袈裟御前


 その昔、摂津の国(現大阪市淀川河口付近)の武士集団・渡辺党(注1)に属し、鳥羽上皇の第二皇女統子、即ち「上西門院(注2)」に仕える北面の武士(帝の周辺警護をする役人)・遠藤盛遠(えんどうもりとう)とて、血気盛んなる若武者が居りました。

 ある時、その盛遠が、有ろう事か同僚の渡辺亘(わたる)の妻・袈裟御前(けさごぜん)に一目惚れしたのです。聞けば彼女と盛遠とは血縁筋に当たると申し、それも有ってか、袈裟にも少しは気の緩みがあったのでしょう、何度か忍び逢いを重ねる内に、すっかり心を奪われた盛遠が、ある日、

 「亘と別れて、俺と一緒になれ」と、誠に身勝手な事を言い出したのです。

 袈裟にすれば、ほんの遊び心のつもりでしたから、盛遠の突然の申し状には、唯々戸惑うばかりです。彼女には、一本気で思い込みの激しい盛遠を説得する自信は更々なし、さりとて、自らにも非のあるところ、まさか夫に相談するわけにも参りません。

 さんざん悩んだ揚げ句、一計を案じた袈裟は、
 「今夜、寝静まった頃に寝所に押し入って、夫を殺して下され」と、申します。

 夜も更けて、亘の館を訪ねますと、袈裟に教えられた寝所の扉は、すでに開け放たれていました。
(写真)これも袈裟の心遣いかと一人合点した盛遠は、太刀を抜き放って、難なく亘の部屋へ忍び込んだのです。

 寝所の闇に目を凝らしてみますと、確かに人の寝ている気配がします。
 足音を忍ばせて近づいた盛遠は、盛り上がった寝具の胸のあたりを目掛けて、一気に太刀を突き立てました。確かな手応えがあって、亘は血吹雪の中にて、息絶えました。

 袈裟に見せんがため、その首掻き取り、髪を掴んで表に出ますと、館の外は何事も無かったように、静寂に包まれて、月の光がこうこうと、木々の間から差し込んでおりました。

 ところが、手に持ったその首確かめんとて、月明かりにかざした盛遠は、腰を抜かさんばかりに仰天するのでした。盛遠がそこに見たのは亘に非ず、袈裟御前の首だったのです。

 思わず手放した首は、ズシンと鈍い音がしてごろりと庭に転がり、血と土にまみれた袈裟の顔が、じーっと盛遠を見上げて居りました。

 明くる朝、身を清めて白き淨衣に着替えた盛遠は、己の首討たせんと、渡辺亘の館を訪ねました。ところが亘は、彼の罪を一向に咎めようとはせず、裁きを神仏に委ねるとて、亘自身が出家すると申すではありませんか。

 亘の予期せぬ言葉に、重荷を背負った盛遠も、この世の無常を思い知ってか、墨染めの衣に身を包み、雲水
「文覚」となったのです。
 
 酷暑には、裸にて薮に籠もり、毒虫・毒蛾に身を任せ、厳寒には、那智の氷の滝に打たれ、はたまた、大峰・高野・白山・不二・出羽・羽黒、数多の山々を駆け巡るなどして、命掛けにて荒行に挑みました。

 されども、月に照らされた袈裟の顔は、終生、彼の脳裏から拭い去る事は出来ませんでした。



 
(注1)渡辺党・・・・嵯峨源氏・源融(みなもとのとおる・即ち源氏物語のモデル)を先祖に持つ武士の集団。摂津の国(現・大阪市淀川河口)に本拠を構え、海運などに利権を持つ傍ら、北面の武士として御所の警備などに従事していました。源三位頼政の配下で宇治橋の戦いに参戦した渡辺競・省・授・連なども同じ党に属します。また、鬼退治で有名な渡辺の綱も祖先に当たります。
 
 
(注2)上西門院(じょうさいもんいん)・・・崇徳天皇と同腹の待賢門院と鳥羽帝の間に出来た娘。「門院」は、皇族の女性に与えられる敬称。平家物語では、建春門院・美福門院・建礼門院などが登場します。

 このお話は、戦後間もなく、映画化された様に、記憶しています。(カンヌ映画祭でグランプリ)
 ”地獄門”? 主演の遠藤盛遠を長谷川和夫、袈裟御前を京マチ子、渡辺渡を山形勲の、各氏が演じられたと思いますが、間違っていたら御免。

上巻 巻第五 七「文覚の荒行の事」より

しかるに、かの頼朝は去んぬる平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀版によって、すでに誅せらるべかりしを、故池の禅尼のあながちに嘆き宣ふによって、生年十四歳と申しし永暦元年三月二十日の日、伊豆の北條蛭が小島へ流されて、二十余年の春秋を送り迎ふ。

 年頃もあればこそありけめ、今年いかなる心にて、謀版をば起こされけるぞと云ふに、高尾の文覚上人の、すすめ申されけるによってなり。

そもそもこの文覚と申すは、渡辺の遠藤左近将監茂遠が子に、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆なり。

 しかるを十九の年、道心発し、髻切り、修行に出でんとしけるが、「修行と云ふはいか程の大事やらん、試して見ん」とて、六月の日の草もゆるがず照ったるに、或る片山里の藪の中へはひり、裸になり、仰のけに臥す。

        
熊野・那智の滝

写真は大阪市西区 瀬藤禎祥氏のホームページ「神奈備」から、許可を得てコピーしました。同氏のホームページは下記の通りです。

http://www.kamnavi.net/
あらすじ

 さて、源頼朝と申す御方は、去る平治元年12月、父義朝の謀叛によって、父と共にすでに誅されるべきところを、故池の禅尼(清盛の義母)が、余りに歎かれるによって、御歳14才の永暦元年(1160)3月20日、伊豆の北条・蛭が小島へ流されました。それから20年の春秋を、当地にて送られたのです。

 年頃と言えばそれもありましょうが、今年如何なる御心にて、謀叛をば起こされたかと申しますと、それは高尾の聖・文覚上人の勧めがあったからなのです。

 そもそもこの文覚と申します御方は、渡辺
(淀川河口付近に根拠を持つ源氏の武士団)の、遠藤左近将監・遠藤茂遠の御子にて、遠藤盛遠と申し、元は鳥羽上皇の第2皇女(上西門院)に仕える武者でした。ある事情(上記)があって、19才の年に道心を起こして髪を切り、修業に出んとしましたが、先ず手始めに、

 「修業とは如何ほどの大事やらん、試して見ん」とて、6月の草木も揺るがず 照り付ける最中に、或る片山の藪の中へ入り、裸になって仰向けに寝転びました。

 虻・蚊・蜂・蟻など毒虫が身にひしと取付いて、刺し、食うのも厭わずに、7日が間はぴくりとも動かず、ようやく8日目にもなって、むっくと起き上がった文覚、

 「修業とはこれ程のことか」、と人に問えば、
 「これ以上なされば、生きてはおれませぬ」」と人は答え、
 「さては、まだ大丈夫と言う事だな」とて、やがて放浪の旅に出立しました。熊野へ参って、
 「先ず試みに、音に聞こえし那智の滝
(写真)に打たれて見ん」とて、厳寒の那智へ向ったのです。

 頃は12月10日、雪が降り積り、雫はツララとなって、谷の小川も音を立てず、峰の嵐吹き荒れて、滝の白糸も今は氷です。あたり一面白ばかり、四方の梢も見分けがつきません。そんな中を文覚、滝壷に下り水に浸りました。

 首際まで水に漬かって呪文を唱えていましたが、2、3日こそ耐えたものの、4,5日すると、さすがの文覚も耐えかねて浮き上がり、数千丈たぎり落ちる滝に押し流されて、刃の如き鋭い岩角の間を、浮きつ沈みつ4,5町も流されておりました。

 その時、美しい童子が一人現れて、文覚の手を取り、水の中から引き上げられたのです。人が不思議に思いながら、火を焚いてあぶりますと、さすが業の強い御方です、息を吹き返した文覚は、大目玉を剥いて、

 「我この滝に37日打たれて、不動明王の呪文を30万回唱えんとするに、まだ7日も過ぎざるを、何者が引き上げたるぞ」、と怒れば、誰もが彼を恐れて黙ってしまいました。そしてまた、滝壷の中へと飛び込んだのです。

 しかし、2日目には又も、8人の童子が現れて、文覚の両手を取り、引き上げんとしましたが、取っ組み合いとなって、散々にてこずらせ、上がろうとしません。挙句の果てに、3日目には、終に儚くなったのです。
 
 時に、滝を穢がしてはならじと思し召されたか、2人の鬢(びんずら)結いたる童子、滝の上より舞い降りて、暖かくも香しき御手を以って、文覚の頭から手足まで撫で擦りますと、文覚夢心地して、やがて生き返りました。

 「そもそも、我を憐れみ給う貴方様は、如何なる御人におわしまするやら」、と尋ねますと、
 「我らは、大聖・不動明王の御使いにて、金迦羅・制多伽(きんから・せいたか)と申す童子なり。文覚無上の願を懸け、勇猛の行を行うによって、これを助けよと命を受け、来たれるなり」、と答える。

 「さて、明王は何処におはします」、
 「都卒天(天人の遊ぶ所)に」、と答えて、童子は雲の彼方へ上って行かれたのです。 文覚、掌(たなごころ)を合わせて、

 「さては、我が行をば、大聖不動明王までも御知り給うたか」と、いよいよ頼もしく思われて、なお滝壷に入って、修行を積まれたのです。

 かくして那智に千日籠もり、その後、大峯3度・葛城2度・高野・粉川・金峰山・白山・立山・富士の嶽
(写真)・戸隠・出羽の羽黒等、日本国余す所無く歩き回って、さすがに故郷が恋しく思われたか、京の都に舞い戻りますと、およそ、飛ぶ鳥も落とす程の、”刃の験者”(注1)と人は呼びました。

 (注1) 験者(げんざ)・・・修験者。病魔や妖怪の退散を祈祷する山伏。
 富士の白雪   横浜市泉区から
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