小督(こごう)の事
  渡月橋 春  平成18年4月12日       
       
    
 嵯峨渡月橋畔の小督塚(左)と河畔に建つ琴ぎき橋の碑(橋を渡ると山裾に法輪寺の塔が見えます。)

 ”峯の嵐か松風か
     尋ぬる人の琴の音か
  駒をとどめて聴くほどに
      爪音高き想夫恋

              
            (黒田節の一節)
 左の写真は

 
清閑寺内 小督の供養塔(東山区)

 
 高倉上皇が崩御された後、彼女は天皇陵の側の、この清閑寺で、生涯上皇の菩提を弔いました。

渡月橋から法輪寺を望む
 

    
法輪寺 (虚空蔵さん・知恵を授ける仏さま)
 桂川対岸から臨めば、山の中腹に木の葉がくれに見える多宝塔が印象的です。
 十三参りの風習は江戸時代中期に始まりました。参拝後は、渡月橋を渡り終えるまで、振り返ってはなりません。折角授かった知恵(ご利益)が消えるのです。
 ”小督の局が爪弾く琴に合わせて、笛を吹く源の仲国”
上の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。
 http://www3.ndl.go.jp/rm/
 上巻 巻六 三「小督(こごう)の事」 より
主上は、恋慕の御涙に思し召し沈ませ給ひたるを、申し慰め参らせんとて、中宮の御方より、小督の殿と申す女房を参らせらる。

 そも、この女房と申すは、桜町の中納言成範の卿の娘、禁中一の美人、並びなき琴の上手にてぞましましける。

 冷泉の大納言隆房の卿、未だ少将なりし時、見そめたりし女房なり。始めは歌を詠み文をば尽されけれども、玉章の数のみ積りて、靡く気色もなかりしが、さすが情に弱る心にや、終には靡きにけり。
 あらすじ

 主上(高倉院)が恋慕の御涙に沈まれるのを慰め参らせようと、中宮様(お后の徳子・清盛の娘)が宮中より小督(こごう)の殿と申す女房を、主上の元へ参らせました。この女房と申すは、先の平治の乱にて義朝に討たれし信西入道の孫にて、
桜町の中納言成範の卿の娘、御所一番の美人と謳われ、並び無き琴の上手でもあります。

 大納言隆房卿が、未だ少将の頃、この小督を見初められて、始めは歌を詠み文を尽されましたが、艶書(えんしょ・恋文)の数積るばかりにて、彼に靡く(なびく)気色は有りません。

 それでも、隆房卿の篤き情に心を移されたのか、小督も終には靡かれたのです。
 さりながら、今は主上に召されて、如何しようも有りません。悲しくて別れの涙に袖を濡らされておりました。

 隆房卿、如何にもして、今一度小督に逢はんとて、御用も無いのに参内し、御所の彼方此方を尋ね歩きましたが、小督は、”我、君に召されし上は、少将 如何に申せども、言葉を交わすべきにあらず”とて、言伝てにさえ情ある返事をなさりませんでした。隆房卿、もしやと、一首の歌を詠んで、小督の住む局の簾の中へ投げ込みました。

         
思いかね 心は空に 陸奥の 
              ちかの塩釜 近しかひなし


 小督も、返事をせねばと思われましたが、君が為後ろめたしと思われたのでしょう、手に取って見ようともなさらず、付人に取らせて庭に投げ出させたのです。隆房卿、情けのうは思われましたが、さすがに人の目も恐ろしくて、懐に入れ立ち帰られました。

        
 たまづさを 今は手にだに 取らじとや
               さこそ心に 思ひ捨つとも


 とて、この世にては、生きて相見る事も難しく、何時までも人恋しく思わんよりは、ただ、死なんとぞのみ願われるのでした。
 
 清盛入道、この由を聞かれて、

 「中宮(徳子)も我が娘、隆房卿の奥方も我が娘、小督なる女に2人の婿を取られては面白ろからず。如何にもして、小督を召し出だし失わん」
(注1)と、息巻きました。

 この由を伝え聞かれた小督、我が身の上はともかくも、君の御為に心苦しく思われて、或る夜、内裏をば紛れ出で、行方知れずとなられたのです。

 主上の御嘆きは浅からず。昼は寝所に籠もられて御涙に沈み、夜は南殿に御出ましになり、月の光に心を慰めておはします。清盛入道、この由承って、

 「さては、君は小督ばかりを思し召して、沈まれ給うなり。ならば」とて、お付の女房も参らせず、参内する人々も阻まれたのです。入道の権威を恐れて、参る臣下もいなくなりました。御所の内は、以前にも増して、ひっそりとしています。


 頃は8月10日余り、夜空は隈なく晴れ渡っていますが、主上(高倉院)の御心は御涙に曇って月の光も朧げです。
 小夜更けて主上が、

 「誰かある、誰かある」と、何度も召されましたが、お答えする者とて有りません。
 ややあって、弾正大弼・源仲国
(注2)、その夜は丁度宿直(とのい)にて、

 「仲国がここに」とお答えし、御前に畏まりました。
 「汝近う参れ、仰せ下すべき事あり」と、仰せられます。何事やらんと仲国がお側近くへ参りました。
 
 「汝(なんじ)、もしや小督の行方を知らぬか」
 「いいえ、如何して。私には知る由もありませぬ」
 「誠かどうか分からぬが、嵯峨の辺の、片折戸の家に住むと申す者が有る。主の名前が分からぬが、汝、訪ねて見てはくれぬか」
 
 「主の名前が分からなければ、この仲国、如何して探せましょうや」と、御答えします。
 「それもそうだな」と、深いため息を付かれた主上の頬には、月の明かりに涙が光っておりました。

 主上の光る涙に、暫く考え込んでいた仲国、

 ”そうだ、小督の局は、琴の名手であった。この月の明かりに、君の御事を思い出されて、琴を弾かぬ事がよもあろうか。 その昔、小督が内裏にて琴を弾かれた時、この仲国、笛の役に召された事があった。小督の琴の音は、仲国、何処にいても聞き知って居るではないか。嵯峨の在家、如何ほど有るか知らぬが、如何して捜せぬ事があろう、いざ、うち回って尋ねて見ん”、と思い直して、

 「されば、たとえ主の名が知れなくとも、お尋ね致しましょう。しかし、もし尋ね参らせたとしても、御書など無ければ、彼女はきっと上の空と思し召すでしょう。君の御書を賜りたく」と、申しました。
 主上、「それもそうだな」とて、書をしたため、下されたのです。

  「寮の馬に乗って行け」との仰せにて、名月に鞭を揚げ、西を目指して歩ませました。
  藤原基俊公が、”牡鹿鳴くこの山里”
(注3)と詠じた嵯峨の辺りの秋の頃、昔はさぞ哀れを覚える風情だったのでしょう。

 片折り戸したる屋を見付けては、もしや、この内におはすらんとて、一々に聞き歩きましたが、琴引く家は有りません。御堂(みどう)へも参りたるやもと、釈迦堂(
五台山清涼寺・写真下)などを見回れども、小督に似たる女房さえも見当たらず。嵯峨野一円を探し歩けど、その陰も有りません。

 空しく帰るのは、参らぬよりもなお悪く、これより何処へか、迷い行かばやと思えど、何処も帝の土地にて、この身を隠せる所がいずこに有りましょうや。如何がせんと迷う内に、そうだ、法輪寺
(写真上)は程近く、月の光に誘われて、お参りされてはいないかと、駒を廻らして、桂川(写真)へと進めました。

 すると程なく、亀山
(嵐山の一角にある地名)の辺り近く、一叢(むら)の松蔭から、微かに聞こえる琴の音、峰の嵐か松風か、訪ぬる人の琴の音か、覚束なくは思えども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内から、澄んだ琴の音が聞こえて来たのです。

 そっと控えてこれを聞きますと、少しも違う事無く、小督が爪弾く琴の音です。楽は何かと聞き入りますと、夫を想うて恋うと言う、”想夫恋(そうふれん)”に相違有りません。
 
 仲国、”さればこそ、君の御事を思い出して、楽こそ多い中から、この楽を弾き給う事の優しさよ”と思い、腰より取り出だしたる笛をちょっと吹き、片折戸をそっと叩きますと、忽ち琴は止みました。

 「これは、内裏より仲国が御使いにて参り候。この戸開けさせ給え」、と申せば、やがて人の出で来る気配がしました。仲国嬉しく思いながら待つ内に、錠をば下ろして門をば細めに開け、いたいけな幼き女が顔ばかりさし出だして、
 
 「ここは左様に、内裏より御使いを賜る様な所では有りませぬ。お門違いでしょう」と、すげない返事、錠を差され門を閉められてはと思った仲国、是非無く、これをこじ開けて、内へと入りました。妻戸の縁に立った仲国、

 「何故え、かような所に御隠れなさるのか。帝は、貴方故に想い沈まれて、御命も危ういと申すに。私の申す事を絵空事と御思いならば、御書を賜って居ります。御覧あれ」とて、これを開けて見給うに、まさしく君の御書に相違無く、小督、やがて返事をしたため、御衣一重ね添えて、差し出しました。

 「ご返事を賜った上に、申し難くは候えども、直々のご返事を頂かねば、如何して帰れましょう」と申しますと、小督も、さもありなんと思われたのか、自ら返事をなされました。
 
 「そなたもお聞き及びでしょう。入道の余りにも恐ろしき事のみ申すによって、或る夜ひそかに忍びつつ、内裏を紛れ出でて、今はこの様な所に、人目を忍び暮らして居ります。日頃は、琴弾くこともなかりしを、明日は大原の里に向わんと思い立ち、夜も更ければ立ち聞く者もなかれと思い、この内の主の女房と今夜限りの名残を惜しんで、手馴れし琴を弾く程に、貴方様に聞かれてしまったのです」と、涙ながらに申し、仲国も思わず袖を絞るのでした。

 ややあって仲国、涙を抑えて申すには、
 「明日より、大原の奥へ参ると申されるのは、きっと様を御変えなさる
(出家して尼になる事)に相違無し。それもせん無いことながら、されば帝も力及ばず。如何にしても、この女房館から御出で参らすな」と、下郎に申し付け、その屋を守護させて、我が身は寮の馬に打ち乗り、御所へ帰りつく頃には、夜はほのぼのと明けました。

 仲国、やがて寮の馬を繋ぎ、女房から預りし御衣を清涼殿のはね馬の障子
(注4)に打ち掛けて、定めて御休みの事と思い、南殿へ差し掛かりますと、君は未だ昨夜のままに、御座り遊ばされていたのです。

 
”南に翔り 北に向う寒温を 秋の雁に附け難し
     東に出で 西に流る ただ瞻望を 暁の月に寄す”  
和漢朗詠集 大江朝綱)

 
と心細げに月を眺め給うところへ、仲国、つつっと罷り出でて、女房がご返事を差し出せば、君は多きに御喜び遊ばして、

 「されば汝、今夕にでも連れて参れ」とこそ、仰せがありました。

 もしこれが清盛入道に知れると大変な事です。恐ろしくは有りましたが、これも君の御錠なればとて、人に車を借りて嵯峨へ向いました。むずかる小督を様々に説得し、ようやく車に乗せて御所へ参らせ、御所の深い部屋に御隠し申し上げたのです。

 そして、夜は寝所に召されていましたが、やがて、姫君がお生まれになりました。世に坊門の女院と申されたのは、この御方です。

 清盛入道これを漏れ聞いて、
 「何処かに失せたと申すは偽りか、今度こそ殺せ」」と、怒りましたが、無理矢理、髪を切られた小督の局は、嵯峨の奥へ追放されたと申します。

 その後、帝の御悩みは益々重くなって、終には御隠れになってしまったのです。


 法皇の御嘆きも、打ち続きました。
 去る栄万には二条帝を失われ、安元2年には六条帝がお隠れになりました。天に住む比翼の鳥、地にあれば二本の枝と、契り浅からぬ奥方の建春門院(清盛の妻の妹)にも、秋の霧の様に失せられ、昨年は次男の以仁王が討たれなされました。

 このように、次々と身内を失われて、涙も乾かぬ内に、今又一番頼りとされていた高倉院を亡くされたのですから、法皇の御悲しみもひとしおです。

 「この世にて悲しみの極みは、年老いて子に先立たれ、子に死に遅れることだ。また、一番の恨みは、若くして子が親に先立つことだ」と、昔、大江朝綱公が我が子に先立たれたお気持ちを、書き留められていますが
(注5)、今にして法皇も、そのお気持ちがお分かりになられたのです。 

 (注1) 大納言隆房卿のこと・・・隆房卿の奥方も清盛公の娘で、中宮徳子も清盛公の娘ですから、二人の娘の夫が、小督に心を奪われたわけで、これに立腹した清盛公は、小督の局を亡き者にしようとしたのです。
 (注2) 弾正大弼(だんじょう・おおひつ)・・・役人の罪悪を糾し、風俗の規律を取り締まる役所(弾正台)の次官。
 (注3)
 藤原基俊家集 ・・・” を鹿鳴く この山里の さがなれば
                               悲しかりける秋の夕暮れ”

 (注4) はね馬の障子・・・清涼殿の南に立てかけられた、表に馬・裏には蹴鞠の絵が描かれた衝立障子。
 (注5) 大江朝綱が我が子燈明に先立たれた哀しみを詠んだ詩
           
 ”悲之又悲 莫悲於老後子 恨而更恨 莫恨於少先親” 
 清涼寺 平成18年4月12日
      源氏物語のモデル・源融の別荘跡です。源氏物語では 嵯峨の御堂(みどう)の名称で登場します。
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