義仲公の奇襲戦法
 
火牛像(倶利伽羅峠内)
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 魔の倶利伽羅峠古戦場
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 私たちが子供の頃からよく聞かされた、義仲の奇襲戦法の火牛の話は、平家物語には出てきません。きっと、後の時代に成立した盛衰記頃に、中国の故事にヒントを得て、付加されたものと思われます。

 戦いに敗れた平家の武者は、先を争ってこの谷へ落ち行き、折り重なって、討ち死にしました。7万余騎の平家軍の内、生きて都へ帰ったのは、わずか2千余騎といわれ、今でも谷底から、恨みの声が聞こえて来るそうです。

 
上の写真は七尾市 春成 梅子氏のホームページから拝借しました。
  倶利伽羅峠写真集を、御覧になりたい方は下記へ。
    
     
  http://w2232.nsk.ne.jp/~harunari/
上巻 巻第七 五「倶利伽羅落しの事」より

 さるほどに、源平両方陣を合す。陣のあはひわづか三町ばかりに寄せ合せたり。源氏も進まず、平家も進まず。ややありて、源氏の方より、精兵すぐって十五騎、盾の面に進ませ、十五騎が上矢の鏑を、ただ一度に平氏の陣へぞ射入れたる。

 平家も十五騎を出いて、十五の鏑を射返さす。源氏三十騎を出いて、三十騎の鏑を射さすれば、平家も三十騎を出いて、三十の鏑を射返さす。源氏五十騎を出せば、平家も五十騎を出し、百騎を出せば、百騎を出す。両方百騎づつ陣の面に進ませ、互に勝負をせんとはやりけるを、源氏の方より制して、わざと勝負をばせさせず。

 かやうにあひしらい、日を待ち暮らし、夜に入って、平家の体勢を、後の倶利伽羅が谷へ追ひ落さんとたばかりけるを、平家これをば夢にも知らず、供にあしらひ、日を待ち暮らすこそはかなけれ。

あらすじ

 さる程に、源平の両陣は、僅か300mばかりに寄せ合いました。しかし、しばらくは、源・平互いに攻めようとはしません。ややあって、源氏の方から、精鋭えりすぐった15騎が進み出て、鏑矢(かぶらや)を、平家の陣へ一斉に放ちました。平家も15騎を出して、15の鏑を射返します。源氏が30騎出せば、平家も30騎、50騎出せば50騎、100騎出せば100騎出す。互いに心はやれど、源氏がそれを制して、わざと勝負をさせません。

 かように、あしらいながら、日を待ち暮らし、夜に入れば倶利伽羅が谷へ追い落とさんと謀かられるとは、夢にも知らず、共にあしらいながら日の暮れを待つ平家こそ、誠に哀れです。
 
 さる程に、北と南から回った搦め手の勢1万余騎、倶利伽羅の不動明王堂にて落ち合い、箙(えびら)を叩いて、鬨(とき)の声をどっと挙げました。平家の各々後ろを振り返ると、白旗が雲の如くに翻っております。

 「この山、四方を岩石に囲まれて、よもや搦め手
(注1)には廻るまいと思うたに、こは如何に」とて、一瞬にして騒然となりました。

 それに呼応して、今度は大手より、木曽義仲の率いる1万余騎が、鬨(とき)の声を上げ、砺波山に隠した1万余騎、日の宮林に控える今井四郎の6千余騎も、同じく鬨を作りました。前後4万余騎の喚く声が、まるで山も河も、ただ一度に崩れるように響き渡りました。

 あたりはいよいよ暗し、源氏勢が前後から迫って来ます。
 「あら、敵に後を見せるとは汚し、戻せや、返せ」と、叫ぶ声があちこちで挙がりましたが、総崩れとなっては、取って返す事も難しく、平家の大衆、後ろの
倶利伽羅が谷(写真)我先にと落ちて行きました。 

 先に落ちた者が見えなければ、
 「この谷底にも、道こそ有るらん」とて、親が落ちれば子も落ち、兄が落ちれば弟も落ち、主が落ちれば郎党も主に続きます。馬には人が、人には馬が、落ち重なり落ち重なって、さしも深い谷が、平家の勢7万余騎にて埋め尽されたのです。岩泉が血を流し、死骸が岡をなしました。されば、この谷の辺りには、矢の穴・刀の疵が、今も残っていると承っております。

 平家の侍大将・上総太夫判官忠綱、飛騨太夫判官景高、河内判官秀国も、この谷の底に埋もれました。又、備中の住人・瀬尾太郎兼康は、聞こえる剛の者ですが、加賀の住人・倉光次郎成澄の手に掛かって、生け捕りになりました。一方、越前・火燧ヶ城(ひうちがじょう)にて、源氏を裏切った平泉寺の長吏斎明威儀師も捕われて、木曽の御前に出で来ました。木曽義仲が、「その法師、余りにも憎し、先ず斬れ」とて、その場にて斬られたのです。

 大将軍惟盛・通盛は、稀有ににもその命を存えて加賀の国へ引き退きました。7万余騎の内、逃れたのは、わずか2千余騎ばかりです。

 同じく12日、奥州の藤原秀衡より木曽の元へ、駿馬が2頭送られて来ました。1頭は白月毛、1頭は連銭葦毛(れんぜんあしげ)ですが、木曽義仲がこれに飾鞍を置いて、白山社へ納められたと言う事です。

 木曽義仲、
 「これで良し。されど、叔父・新宮十郎行家殿の、志保の戦いこそ覚束なし。いざ、出向いて見ん」とて、2万余騎にて馳せ向いました。すると、案の如く十郎行家殿は、散々に蹴散らされて退却し、人馬を休めております。

 源氏、新手の2万余騎にて、平家の3万余騎が中へ駆け入り、揉みに揉んで、火の出る程に攻め立てますと、大将軍・三河守知度が討たれて、その他兵も数多討たれ、平家はそこも落ちて、加賀の国へ引き退きました。なお、この三河守知度と申すは清盛入道の末子なのです。

 木曽義仲、志保の山を越えて、能登の小田中、親王の塚の前にて陣を敷きました。


 (注1)搦め手(からめて)・・・敵の正面を大手、背後を搦め手と言います。義経の鵯越の逆落しの戦法も、敵の搦め手を攻撃したものです。
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