平治物語              上 巻 その 2
 悪源太義平のこと

 平治物語の中で、源氏の勇士として描かれています義平は、源義朝の長男です。従って頼朝や義経の兄に当たります。平治の乱以前は、鎌倉に住んで居たようです。

 彼の名を一躍有名にしたのは、父・義朝が弟・源義賢(よしかた)と領地争いをしていたのを、久寿2年(1155)15歳の彼が、この義賢を攻めて討ち取った事にはじまりました。その後、方々で暴れて、”悪源太義平”と呼ばれる様になったのです。(「悪」と言う言葉は、悪人と言う意味ではなくて、勇猛だとか鋭い等と言った意味で使われています。)

 なお、彼が亡ぼした源義賢は、木曽義仲の父です。父が討たれた時、義仲(幼名:駒王丸)は2歳になっておりました。義朝の手を逃れた駒王丸は、母に抱かれて木曽の豪族であり乳母の夫・中原兼遠を訪ね、その後は、木曽で兼遠に養育されたのです。

 義平が為しえなかった平家追討の偉業を、仇敵である木曽義仲が20年後に為したのですから、皮肉な話です。
   
東京都台東区松が谷2−14−1 
    
矢先稲荷神社 
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 上 巻  第 四  信西の子息闕官のこと附たり除目の事並に悪源太上洛の事

 少納言信西の子息5人が官を解かれました。官を解かれた御方達は、嫡子新宰相俊憲、次男播磨の中将成憲、権右中弁貞憲、美濃少将長憲、信濃守惟憲です。上卿(じょうけい・執行官)には花山院の大納言忠雅、職事(しきじ・書記官)には蔵人の右少弁成頼が就かれたと聞こえました。

 さる程に、太政大臣、左右の大臣、内大臣以下公卿が御所へ参内して詮議しました。信西入道の子供の行方を尋ねられました。播磨中将成頼は清盛の娘婿ですから、もしや助かるかと思って、六波羅へ落ちられましたが、宣旨(せんじ・帝の命令)とて、内裏よりしきりに召されますので、力及ばず出頭せられました。博士判官坂上兼成
(注1)が行き向い、中将成頼を受取って内裏へ参りますと、更に尋ねる事が有りと申されて兼成にお預けになりました。三男権右中弁貞憲は、もとどりを切って法師(出家して)となり、片隅に忍んでいるのを、宗判官信澄が尋ね出して、別当に報告しましたが、これも信澄にお預けになりました。

 やがて除目(じもく・官職に任ずること)が行われました。信頼卿は元より望みを賭けておりましたので、大臣と大将を兼任されたのです。左馬頭・義朝は播磨の国を賜って播磨の守になりました。佐渡式部大輔は信濃守に、多田蔵人太夫源頼範は摂津守に、源兼経は左衛門の尉に、康忠は右衛門の尉に、足立四郎遠元は右馬允(うまのじょう)に、鎌田次郎政清は兵衛尉(ひょうえのじょう)にそれぞれ叙されて、鎌田は政家を正家に改名しました。今度の合戦に打ち勝ったなら、上総の国を給うべき由を聞いた為です。

 ここに源義朝が嫡子・鎌倉の悪源太義平は、母方の祖父・三浦介の元に居ましたが、都に騒ぎ事有りと聞いて、鞭打って馳せ上りました。そして、今度の除目に間に有ったのです。信頼卿が大いに喜んで、

 「義平がこの除目に間に合ったのは幸いであった。大国か小国か、官か官階でも思いのままに与えようぞ。合戦もまたよく戦い奉れ」、と言えば、義平が申すには、

 「保元の乱に、叔父の鎮西八郎為朝を、宇治の頼長殿が御前にて蔵人になされたが、為朝殿は、”何とせっかちなる除目かな”とて、それを辞退したのも肯けます。それよりも、この義平に軍勢を与え下され。阿倍野辺に駆け向い清盛の帰りを待ち伏せて、浄衣(じょうえ・参拝に用いる着物)ばかりにて熊野から上る清盛を、真ん中に取り込めて、一気に討ち果たしましょう。

 もし清盛がその命助かろうと思えば、山の中にでも逃げ込むでしょう。しからば追い駆け追い詰め捕らえて首を刎ね、獄門に架けましょう。その後信西入道を討って、世が鎮まった後にこそ、大国も小国も官も官階も頂戴致しましょう。未だ手柄も見えぬのに、先に官位などを受けて如何がせん。この義平は、東国にて兵(つわもの)どもに、日頃呼ばれている様に、元の悪源太にて結構。」、と申しました。信頼卿が、

 「義平の申し状は、乱暴なる振る舞いなり。その上阿倍野まで馳せ向い、馬の足を疲れさせて如何するのか。都に引き入れて、中に取り込め討つのに、どれ程の事があろうか」、と申されれば、皆、信頼卿の言葉に従ったのです。これこそ、ひとえに運の尽きた為でしょうか。

 大宮の太政大臣伊通公(これみち)、その頃は左大将でしたが、才学優秀にして、帝の御前にても、常に可笑しき事を申されますので、君も臣も大いに笑い給い、御遊びも御上手でした。その伊通公が申しますには、

 「内裏にて、武士共は、手柄を立ててもいないのに、好き勝手に官位を受けている。人を多く殺して官位が受けられるのならば、三条殿の井戸こそ、多くの人を殺したではないか。如何してあの井戸に官を授けぬのか」、と笑われたと言う事です。

 (注1) 博士(はかせ)・・・官吏を養成する大学寮の教授、試験を司る教官。
 上 巻  第 五  信西出家の由来並に南都落ちの事附たり最後の事

 さる程に、通憲入道(みちのり・信西のこと)を尋ねましたが、入道の行方を知る者は居りません。
 そもそも、この信西と申しますのは、南家
(注1)の博士(注2)長門守高階・経俊の養子です。大業を挙げた訳でもなく、儒官にも入らず、代々続いた家柄では有りませんので、太政官の役人にもならず、日向守(ひゅうがのかみ・宮崎地方の国主)・通憲とて、ただ何となく帝の御前にて召し使われていたのです。

 それが如何して出家(僧籍に入る事)されたのかその故は、ある日、御所へ参ろうとて鬢(びん・耳際の毛)を掻き撫ぜていましたが、化粧水に写った顔を見れば、首が剣の先に掛かって空しくなるという凶相が現れていたのです。本人も大変驚きましたが、ちょうどその頃、宿願が有って熊野へ御参りしました。

 切部の王子(きりべのおうじ・熊野古道に祀られた99の王子の1つ切目神社)の前にて、一人の人相見(占い師)と行き会ったのです。その者が通憲入道の顔を見て、

 「貴殿は諸道を極められた才人であるな。但し、その首が剣の先に掛かって、命を草上に曝すと相に出ているが、如何がなされたのか」と申します。そして様々に占いを試みましたが、行く末は知らず来し方に違えた事は有りません。

 「通憲もそう思うぞ」、とて嘆き悲しみ、
 「それをば如何にすれば、この難から逃れられるであろうか」、と問えば、
 「それなら出家すれば逃れられるであろう。但し、70を越えれば、それも分からぬ」、と答えたのです。

 熊野から帰った通憲が、早速御前に参り、
  「出家しようと思いますが、日向の入道と呼ばれるのは、余りにも情け無く思います。少納言を御許し願いとう存じます。」、と申しますと、
 「少納言は摂政でも順々になるものにて、簡単に授けられるものではない。さて、如何したものであろうか」、と仰せられましたが、様々に申して御許しを蒙むり、出家して少納言入道・信西と申す様になったのです。

 彼の子供は、或るいは中将・少将に至り、或るいは七弁
(注3)に相並ばせて羽振りも良かったのですが、終には墨染めの衣に身を包み、露の命を野辺の草葉に置き兼ねて、昨日の楽しみは今日の悲しみ、諸行無常の理は今、目前に現れたのです。吉と凶はなえる縄の如しと言うのは理(ことわり)なのです。

 信西入道は、9日の午の刻(午後0時)に、白い虹が日を貫くという天変を見て、今夜、御所へ討入りが有ると知ったのでしょう、これを君に御知らせせんと後白河院の御所へ参上しましたが、折悪しくお遊び中にて、御子様たちが御前に伺候されていたため、興を醒ますのも無骨なりとて、或る女房に仔細を話し置いて、罷り出られたのです。

 宿所へ帰った信西が妻・紀伊の二位に、
 「今夜、討ち入りが有るかも知れぬ、子供たちにも知らせよ。信西は思うこと有って、奈良の方へ行く」、と申せば、二位殿も、ご一緒にと嘆かれましたが、様々に宥めて留め、侍4人を具し秘蔵の月毛の馬に鞭打って、舎人
(注4)の成沢を召し連れ、南都の方へ向われました。そして、宇治路に掛かると、田原が奥の大道寺と言う自らの所領に赴いたのです。

 石堂山の後ろ、信楽峰を過ぎてはるばる分け入りますと、又天変地異がありました。木星と金星が・・・・を侵す時、忠臣が君に代わると言う天変です。信西入道が大いに驚いて、素より天文学は極めていますから、この現象を考えるに、強き者が弱くなり、弱き者が強くなると言う文句が有ります。これは、君がおごる時は臣は弱く、臣がおごる時は君が弱くなると言うことです。

 都では今まさに、臣がおごって、君が弱くなっています。この時こそ、忠臣が君に代わる時です。その忠臣と言うのは、恐らくこの信西を置いて他には居りません。と考えた信西入道は、明くる10日の朝、右衛門尉・成景と言う侍を側に呼んで、
 「都の方で何事か有る、見て参れ」とて、彼を都へ差し遣わされたのです。

 右衛門尉・成景が馬に打ち乗って都へ駆け行く程に、木幡峠(宇治市)の辺で、信西入道に召し使われている舎人の竹沢と言う者が、院の御所に火が掛けられたのを見て、奈良に向われた信西入道に、この事を知らせんと馳せ下るのに行き会ったのです。竹沢の申すには、

 「姉小路のご宿所(信西の館)も焼払われました。これは右衛門督・信頼殿と左馬頭・義朝殿とが相語られて、信西入道一門を亡ぼさんとする謀(はかりごと)と承りました。この由を告げんとて、奈良へ参ります。」、と申せば、竹沢ごとき下郎に入道の居場所を知られてまずいと思って、

 「汝、良くぞ知らせて参った。殿は春日山の奥、しかじかの所」、などと適当に教えて、自らは都へ上ると申しながら田原の奥へ帰り、入道にこの由申せば、

 「さればこそ、この信西が見た天変地異の占いは、決して違わぬと覚えるぞ。忠臣が君に代わるためには、そうだ、この命を失って君の御恩に報いるに如かず。但し、息の続く限りは仏の御名を唱えよう。用意致せ」、とて、穴を土中深く掘り、四方に板を立て並べて、そこへ信西入道を入れ奉りました。
 入道に伴って来た4人の武士は、それぞれ髻
(注5)を切って、

 「最後の御恩に、法名を下さりませ
(注6)」と申せば、左衛門尉・師光は西光(注7)、右衛門尉・成景は西景、武者所・師清は西清、修理進・清実は西実と、それぞれに法名を授けました。

 その後、大きな竹の節を通して、入道はそれに口を当て、もとどりと共に、土へ埋めました。
 4人の侍は、墓の前にて歎きましたが、叶わぬ事なれば、泣く泣く都へ帰ったのです。

 (注1) 南家(なんけ)・・・藤原一族は、鎌足の孫の代から、南家・北家・式家・京家の4つに分かれました。
                 代々摂関職を継承するのは藤原北家です。
 (注2) 博士(はかせ)・・・官吏を養成する大学寮の教授。
 (注3) 七弁(しちべん)・・・太政官府参議の下の官職・大弁・中弁など。
 (注4) 舎人(とねり)・・・天皇などに仕えて雑務を司る役人。
 
(注5) 髻(もとどり)・・・髪を縛る紙のヒモ。こより。
 
(注6) 法名(ほうみょう)・・・出家して僧籍に入った人の名前。
 
(注7) 西光(さいこう)・・・・平家物語の鹿ケ谷事件の首謀者になります。
 上 巻 第 六  信西の首実権の事附たり大路を渡し獄門に懸けらるる事

 舎人の成沢も同じく都へ上りましたが、主の信西入道が果敢無くなる直前までお乗りになっていた馬を、奥方の紀伊の二位に御見せしょうと空しく引いて帰る程に、出雲前司光泰が50余騎にて信西入道の行方を尋ね来るのと、木幡山にて行き合ったのです。

 泰光は馬も舎人も見知って居りましたので、成沢を打ち伏せて問い質しますと、始めは知らぬと申していましたが、終には有りのままを申しました。そこで、この男を先に押し立てて行く程に、新しく土をうがった所が有りました。

 「あれこそ、そうです。」、と教えますと、直ちに土が掘り起こされました。信西入道は、未だ目も働き息もして居りましたが、その首を取って、都へ帰ったのです。

 出雲前司光泰が信頼卿にこの由申して、同じく14日に、検非違使別当
(注1)・惟方を車の尻に乗せて、神楽岡(左京区)の光泰の宿所に行き向い、この首を実験しました。当然の事ながら、やがて明くる日には大路を渡し、獄門に架けるべしと定められれば、京中の上下が河原に市を為して見物しました。信頼卿も義朝と共に車を押し立てて、これを見物したと言う事です。

 15日の午の刻(正午)の事です。晴れた空が俄かに暮れて、星が出たのです。これは不思議なことと思うところに、信西の首が信頼卿と義朝殿の車の前を渡る時、頷いて通ったのです。これを見た人皆、「その内、敵を亡ぼすのであろうか、嗚呼恐ろしい」、と申しました。
 
 「信西入道は、朝敵ではない、帝の命令でもない。それが獄門に懸けられるのは前世の宿業とは申せ、去る保元に絶えて久しい死罪を申し渡した報いであろうか」と、人々は申しました。

 さて、信西入道の奥方・紀伊の二位の思いは浅からず、偕老同穴(かいろうどうけつ)の契り深き入道殿に後れられたのですから無理も有りません。お子達12人は、僧籍の方とそうでない方、まちまちですが、いずれも召し捕られて、生死も未だはっきりしません。頼みとする後白河院も押し込められて、月日の光さえ良くは御覧になれないのです。我が身は女なれども、もし信頼殿が失わんと言われれば、終には逃れがたいと歎かれて居りました。

 (注1) 検非違使別当(けびいしべっとう)・・・都の警備や裁判を行う官職の長官。
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