平治物語 | |||||
平治の乱 ” 大義の無い戦い ” 保元の乱が治まって3年後、ようやく落ち着きを取り戻した京の都を、再び戦火の中に巻き込む事件が勃発しました。それは、出世欲にとりつかれた一人の無能な貴族・右衛門督藤原信頼と、先の保元の乱の恩賞に不満を持ち、地位と名誉を獲得せんと目論んだ愚かな源氏の大将・源義朝が引き起こした、私利私欲を満たす為の、全く大義の無い戦いだったのです。 従って、市中の人々の賛同を受けるはずもなく源氏は滅び行き、力を得たのが平家でした。時の最高権力者である上皇・後白河院の絶大なる信任を得た清盛の率いる平家は、これを期に、全盛の時代を迎えたのです。この戦いを平治の乱と申します。 平治物語は、源義朝の挙兵のいきさつに始まって、彼の滅亡まで、その後の平家の隆盛、木曽の蜂起から壇ノ浦の平家の滅亡、その後の頼朝と義経の確執、義経の討死、果ては頼朝の死までが書かれて居ります。ですから、その時代背景は平家物語に語られる時代よりも後の事まで言及しているのです。 従って、平家物語などと読み較べるのも面白いものです。 |
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「平治物語」 の成立と作者等について 「平治物語」が作られた時期については諸説が有りますが、遅くとも1239年までには成立していたであろうと推測されています。従って「平家物語」の成立時期とほぼ同時期ですが、「平治物語」が先に作られたという説が有力です。 作者について、「平家物語」には徒然草の中に記述があって、作者を特定する有力な手掛かりとなっていますが、「平治物語」には作者に関する手掛かりがほとんど無く、学者間では諸説唱えられていますが何れも推測の域を出ません。なお、その文体等から、「平治物語」と「保元物語」は同一の作者ではないかと言うのが定説です。 (「平家物語」の成立等に関しては、「総合索引」の末尾参照のこと。) 現存する原本は、渡辺文庫本・金毘羅本・前田家本など各所に有りますが、平家物語と同じ様に其々記述や構成に違いが有るそうです。 私が参考にしましたのは、 岩波文庫 昭和 9年11月15日 初版 岸谷 誠一 校訂 「保元物語」 岸谷 誠一 校訂 「平治物語」 です。 岸谷氏は、渡辺文庫本を底本にしたと書かれています。 |
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( 平治物語は、上巻・中巻・下巻に分かれおり、各編には番号は付されておりませんが、第一第二などと、当方にて適宜付番しました。) | |||||
平治物語 目 次 | |||||
上 巻 | NO | 物 語 の 概 略 | |||
第一 信頼信西不快の事 第二 信頼卿信西を亡さるる議の事 第三 三条殿発向並に信西の宿所焼払ふ事 |
1 | 権中納言藤原信頼と源義朝の謀議。 義朝軍、清盛の熊野詣での留守をついて、三条殿に攻め寄せる。 |
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第四 信西子息解官の事並に悪源太上洛の事 第五 信西出家の由来並に南都落の事附たり最後の事 第六 信西の首実検の事附たり大路を渡し獄門に懸けられるる事 |
2 | 悪源太義平鎌倉より掛け付ける。 信西入道の逃亡と最後、信西の首実験。 |
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第七 唐僧来朝の事(未完) 第八 叡山物語の事(未完) 第九 六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事 第十 光頼御参内の事並に許由が事附たり清盛六波羅上著の事 第十一 信西子息遠流に宥めらるる事 |
3 |
熊野の清盛へ早馬が発せられる。 清盛が六波羅へ帰還。 藤原光頼卿の策略。 |
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第十二 院の御所仁和寺御幸の事 第十三 主上六波羅行幸の事 第十四 源氏勢汰の事 |
4 | 惟方・経宗の離反。主上六波羅へ、後白河院仁和寺へ。 | |||
中 巻 | 物 語 の 概 略 | ||||
第一 待賢門の軍 附たり信頼落つる事 第二 義朝六波羅に寄せらるる事 並に頼政心替の事 附たり漢楚戦の事 |
5 | 平の重盛登場、義平との一騎打ち。 頼政寝返りの事。 |
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第三 六波羅合戦の事 第四 義朝敗北の事 |
6 | 源氏の敗北。大原・八瀬へ敗走。 | |||
第五 信頼降参の事 並に最後の事 第六 官軍除目を行わるる事 附たり謀叛人官職を止められるる事 第七 常葉註進並に信西子息各遠流に処せらるる事(未完) |
7 | 信頼投降、斬首へ。 常葉(ときわ)と牛若らの沙汰。 |
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第八 義朝青墓に落着く事 第九 義朝野間下向の事附たり忠致心替の事 第十 頼朝青墓下著の事 |
8 | 長田忠致の裏切り、義朝の死。 | |||
下 巻 | 物 語 の 概 略 | ||||
第一 金王丸尾張より馳上る事 第二 長田義朝を討ち六波羅に馳参る 附たり 大路を渡して獄門に懸けらるる事 第三 忠致尾州に逃下る事 |
9 | 義朝の首が獄門に懸けられる。 | |||
第四 悪源太誅せらるる事 第五 清盛出家の事並に滝詣 附たり悪源太雷と成る事 |
10 | 悪源太・義平石山寺にて捕らわれ、六条河原で誅される。 | |||
第六 頼朝生捕らるる事 附たり常葉落ちらるる事 第七 頼朝遠流に宥めらるる事 附たり呉越戦の事 |
11 | 常葉(ときわ)牛若ら奈良に身を隠す。 頼朝、池の禅尼の尽力で遠流に。 |
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第八 常葉六波羅へ参る事 第九 頼宗惟方遠流に処せらるる事同じく召返さるる事(未完) |
12 | 母を捕らえられて、常葉が六波羅へ出頭。命を助けられる。 | |||
第十 頼朝遠流の事 附たり盛安夢合の事 | 13 | 頼朝都を離れ伊豆へ。 | |||
第十一 牛若奥州下の事 | 14 | 牛若源九郎義経と名乗り、奥州平泉へ。 | |||
第十二 頼朝義兵を挙げらるる事 並に平家退治の事 | 最終章 | 富士川の戦い、木曽義仲の上洛、一の谷・壇ノ浦の戦い、義経奥州へ、 | |||
原文巻頭 「ひそかに惟みれば、三皇五帝の国を治め、四岳八元の民を撫づる、皆是器をみて官に任じ、身をかえりみて禄をうくるゆえんなり。君、臣をえらんで官をさずけ、臣、己をはかて職をうくるときは、任をくはしうし成をせしむること、労せずして化すといえり。」 「平治物語」 上巻 巻頭より あらすじ 時は、平治元年、 二条帝の時代、出世欲の強い、権中納言藤原信頼と言う公家がいました。 本人には、特にこれと言った才能が、有るわけでもなく、ただ、父親の七光りで、現在の地位を得たもので、周りの人の評価も低かったのですが、本人は、今の地位に満足せず、時の権力者少納言入道信西に、近衛大将に任じるよう迫りました。 が、信西は、彼の能力を知っていましたから、それを無視したのです。 また、後白河院から話があった時も、国を滅ぼす基であると言って、取り合いませんでした。 この話を漏れ聞いた信頼は、短慮にも、源義朝に、信西を亡き者にしょうと、話を持ちかけました。 と言いますのは、法王の信頼が厚い信西は、先の戦い「保元の乱」の戦後処理を、一手に任されて、崇徳上皇の讃岐への島流しや、悪左府頼長、その他の公家・武士の過酷な処分を決定したのです。 とりわけ、義朝は、清盛と共に法王の味方をして、勝利の立て役者となったにも拘わらず、親子兄弟が、敵味方に分かれて、戦った結果、敵側に回り敗者となった父、兄弟子供の斬首を命じられて、それを実行したのですが、清盛と比べ、恩賞が余りにも少なかったために、内心は、信西に恨みを抱いていたのです。 信頼は、義朝の抱える恨みに、付け入ったのでした。 信頼に味方したのは、越後中将成親、義朝のほか嫡子の悪源太義平・朝長・頼朝、源三位頼政、斉藤別当実盛、、新宮十郎義盛(後の新宮行家)、熊谷次郎直実、ら源氏に繋がる勇者ばかりです。 平治元年12月、平家一門が、熊野権現へお参りに行った隙を狙って、義朝を総大将とする、総勢500騎が挙兵しました。 先ずは、後白河院の御住いである三条東殿(写真)を急襲して、帝や後白河院を幽閉しました。その上、殿や信西の宿所に、一斉に火をかけたのです。殿では院に仕える人々が焼死し、火に追われた数多の女官が、殿の井戸に飛び込み死んで行きました。義朝軍は逃げ出す者どもを、多数斬り殺しましたが、目出す信西の姿は見つかりませんでした。 戦いを予感した信西は、前夜、都を抜け出して、奈良の近くの、宇治田原まで逃れていました。しかし、とても逃げ切れないと思ったのか、家来の西光や西景に、穴を掘らせて、自らその穴に入り、竹筒を地上に出して、念仏を唱えながら、生き延びていたのです。 京に帰った信西の家来が捕まり、事の次第を話したものですから、駆けつけた義朝側の武者に、たちまち捕えられ、その場で首切られてしまいました。 信西を討って、目的を果たした信頼は、有頂天となって、天下を取った気分になり、誰彼と無く階位を与えました。鎌倉から、急を聞いて駆けつけた義朝の子供・悪源太義平(写真)にも、階位を与えんとしましたが、彼は保元の乱で、階位を拒否した伯父の為朝に倣って、これを断りました。 このような信頼の傲慢な振る舞いは、周りのひんしゅくを買い、次第に信任を失って行きました。 一方、悪源太義平にすれば、熊野から帰ってくる平家の軍勢が、気がかりでなりません。 信頼に作戦を聞かれた義平は、先手を打って、大阪の阿倍野まで出向き、迎え撃つ策を提案しますが、信頼はそれを否定して、京に平家を誘い入れることを強制しました。この戦方が、戦いの雌雄を決したのです。 熊野で決起した平家は、地元の豪族・熊野の湛増等、多くの味方を加えつつ上洛しました。 戦いは、御所を固める源氏方有利の中、悪源太義平と、平家の若武者・平重盛が、御所・紫震殿前の橘の木を巡って一騎打ちとなったのを皮切りに始まりましたが、なかなか勝負が決しません。 ところが、源氏は、味方の経宗・惟方両名の裏切りにあって、手中にしていた錦の御旗・帝と法皇を、いつの間にか、平家の六波羅へ連れ去られてしまったのです。 帝は惟方等の手引きで、女装して六波羅へ、法皇は、仁和寺へそれぞれ、御所を抜け出していました。これを機に、源平の形勢が一気に逆転して、勝敗は短時間に決しました。 錦の御旗を失い、総崩れとなった義朝方は、平家に討たれる者が続出し始めたのです。 義朝は嫡男・悪源太義平と朝長、及び頼朝を伴い、関東目指して落ち延びようとしますが、六条河原で、源三位頼政(後の)が、平家に寝返ったことを知りました。 義朝等の跡を追ってきた首謀者の信頼は、その不甲斐なさをなじられた上、頼朝に鞭で討たれて、突き放され、京へ帰って行きました。信頼は法皇に赦しを乞いましたが、それも許されずに、六条河原で処刑されてしまったのです。 関東へ逃れんとした義朝一行は、途中、美濃青墓(岐阜県)あたりで、傷付いた次男の朝長が絶命、折からの吹雪のため、親子3人も離れ離れとなりました。 義朝らとはぐれた頼朝は、美濃の妹・夜叉御前を訪ねんとするところを、関が原にて尾張守・平頼盛の家人・弥兵衛宗清に捕らえられてしまいました。 家臣の鎌田らと共に尾張の旧家臣・長田庄司忠致を訪ねた義朝は、長田の裏切りにあって、風呂場で切られてしまいした。 一方、義平は、信州で兵を集めて、再起を図ろうとしますが、思いの外、兵が集まりませんでした。やむなく、京へ引き返し、平家に一太刀でも浴びせんと、機会を狙いました。しかしそれも発覚して逃げるうち、逢坂の関で敢えなく取り押さえられて、六条の河原(写真)で切られたのです。 首を切った難波三郎に向かって、 「雷となって、蹴り殺すぞ。」と言って亡くなりますが、後に、難波三郎が、清盛のお供で、有馬に湯治に出向いたとき、急に雷鳴が響き、難波三郎の抜きはなった刀に落雷して、義平の予言通りに死んでしまいました。 公家の越後中将成親は、妹婿平重盛の助力で、危うく命を救われますが、 この成親卿という人は、後の鹿ヶ谷事件で、その首謀者になります。(平家物語参照の事) 捕らえられた頼朝は、清盛の義母池の禅尼に助けられて、伊豆の蛭が島に流されます。 義朝の側室常磐御前は、清盛の側室に揚がり、三人の子供・牛若・乙若・今若は、出家する条件で助命されました。 鞍馬寺に出家した牛若は、奥州の雄・藤原秀衡を頼って、金売り吉次に連れられ、平泉へと旅立ちました。 その後のお話しは”平家物語”でーーー。 完 |
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