保元物語 あらすじ      その3 「鎮西八郎為朝登場」
      鎮西八郎為朝のこと

 源為義には四十数人の子供があったと言われていますが、その一人が八郎為朝です。体が大きくて気性も豪快、その上、左の腕が右より4寸(12cm)も長く、弓を引けば天下無双の評判も高く、都では暴れ者でした。

 父の為義もこれを持て余して、13歳の時、九州の乳母の夫・阿曽三郎の元へ預けたのです。しかし、九州でも暴れ放題にて九州全土を平らげ、九国の民に迷惑をかけて、止む無く都へ召し返されました。

 丁度その時、保元の乱が勃発しましたので、崇徳上皇の招請に応じた父・為義に従い、従軍して、兄義朝と対峙したのです。

 保元物語には書かれていませんが、異本には、伊豆へ流された為朝が、伊豆諸島から舟に乗って、琉球へ渡ったと言う伝説も有ります。
左の絵は、国立国会図書館が所蔵している貴重画像を、同図書館のホームページから、転載許可を受けてコピーしたものです。
転載許可の手続き等は、下記の、同館ホームページをご覧下さい。

 
   
http://www3.ndl.go.jp/rm/
 上巻 第八 新院為義を召さるる事 附たり鵜丸の事

 その頃、六条判官為義(ためよし)と申しますのは、六孫王より5代の後胤(こういん・子孫のこと)にて伊予入道・源頼義が孫、八幡太郎義家が四男(注1)におはします。

 しきりに、内裏(後白河帝)から召されたのですが、如何が思われたのでしょう、帝に召されたにも係わらず、渋られておりました。  一方、白川殿(崇徳院の御在所)からも、度々召されましたが、参ると申しながら、こちらにも、未だ参られなかったのです。

 よって、崇徳院の院宣(いんぜん・上皇の命令)を携えた教長卿が、堀川六条の源氏が館に赴いて、院宣の趣きを伝えますと、忽ちに威儀を正されて申されるには、

 「この為義、八幡太郎義家が跡を継いで、朝家(ちょうけ・皇居)の御守りをする武士であるから、私が参内しない事を、君が御不審に思し召されるのも無理は無い。しかしながら、私はこの歳になるまで、手を下して合戦に及んだ事は、一度も有りませぬ。但し、私が十四の時、叔父の美濃前司義綱が謀叛に及び、近江の国(滋賀県)加賀山に立て籠もりしに、討伐を承って赴けば、義綱の子供は皆自害(切腹)し、郎等どもも皆落ち失せて、義綱が唯一人、出家しているのを絡め取った事があった。

 また、十八の時、南都(奈良)の僧衆、朝家を恨み奉る事が有って、都へ攻め上って来ると聞こえれば、私に赴いてこれを防ぐ様にと仰せ下されたが、俄かな事で折悪しく無勢にて、わずか17騎の軍勢で以って栗子山に馳せ向かい、数万の僧衆を追い返した事も有った。その後、たまたま戦さのある時は、家の若衆・郎等を差し向けて、これを鎮めて参った。

 それ故、この為義に戦いの高名は一つも御座らぬ。されば、合戦の道は全く不調法なる上、齢(よわい)も70才に及んで、物の役にも立ち難く思う。よって、この程、内裏よりしきりに召されしが、患いなどと偽りを申して参上しなかった。

 それに、今度の戦いの大将軍を拝命する事には、いささか触りに思うことがある。つい先頃、願うところがあって、石清水八幡宮(八幡市)に参籠したところ、神の御告げが有ったのだ。

 又過ぐる日の夜の夢に、源氏に伝わる”日数・月数・源太が産衣・八龍・澤潟(おもだか)・薄金・盾無・膝丸”と申す8領の鎧(よろい)
(注2)が有るが、それが辻風に吹かれて、四方へ飛び散る不吉な夢を見た。それ故、大将になるのは憚らざるを得ぬ。理を曲げて、今度の大将軍をば、他の誰かにお仰せ付け下され」と申しますと、教長卿が重ねて申されるには、

 「金剛の般若心経の中に、”如夢幻泡影”と言う名文が有るが、夢は信ずるに値せぬ。その上、武将の御身が、夢見や物忌みなどと申されるのは、余りにも女々しく存ずる。それを崇徳院に申し上げる訳には参らぬ。如何しても参上せぬと申されるのか」と、糾されれば、為義は、

 「されば、この為義の子の中に、義朝と申して、坂東(関東)育ちの者が居る、合戦の経験も豊かにて賢き者なる上、付き従う兵どもも、皆然るべき者どもなり。しかし、これらは、皆内裏(後白河院)に召されて、既に御所へ参った。その他の奴輩の中には、勢いの有る者は居らぬし、大将軍を仰せつかるべき者が居るとも覚えぬ。

 但し、鎮西八郎為朝・冠者
(注3)こそ、力も優れ、弓も人に越えて、余りに乱暴者ゆえ、幼少の頃より西国へ追いやっていたが、折り良く、今は都に上っている。この者を召して、軍さの用を仰せ下され。」と、申されるのを、
 
 「その儀なら、院へ参って直かに申し上げられよ。ここに居ながら、院宣に御返事をなさるのは、非礼と存ずる」と、言われて、
 「誠にそれも道理」とて、為義が出立しますと、鎮西四郎左衛門頼賢、五郎掃部助頼仲、賀茂六郎為宗、七郎為成、鎮西八郎為朝、源九郎為仲ら子供6名を具して、白川殿へ参られたのです。

 為義親子と対面された新院(崇徳院)は、喜びの余りに、近江の国・伊庭の庄と美濃の国・青柳の庄の2箇所を下さり、為義を判官代に補して、上北面(近衛兵の詰め所)へ伺候するように、能登の守家長を通じて仰せられ、鵜丸(うのまる)と申す太刀を授けられました。

 そもそも、この太刀が”鵜丸”と名付けられたのは、白川上皇が神泉苑(中京区)へ御幸になって、御遊びの余興に、鵜(う)を泳がせて御覧になられて居りました。

 とりわけ逸物と聞こえる一羽の鵜が、2,3尺(1m)の物を嘴(くちばし)にて、しきりに、かつぎ上げては落としております。人々これを怪しんで見守る内に、4,5度目には、終に、これを飲み込んで、鵜匠がこの鵜を船に引き上げたのです。それを見れば、金銀にて飾り付けた立派な太刀です。

 諸人(もろびと)皆、これを奇異に感じ、上皇も不思議に思し召して、
 「これは定めて霊剣なり。天下の珍宝に相違なし」とて、”鵜丸”と名付け、秘蔵されていたのです。鳥羽院がこれを伝えられて、院亡き後、新院・崇徳院に参らせ、今、この太刀を為義に下されたのですから、真に面目の至りです。

 為義、この度こそ最後の戦いと思われて、源氏に先祖から伝わる鎧を一領づつ、5人の子供に着せ、我が身は、”薄金”と申す名の鎧を着ました。”源太が産衣”と”膝丸”(ひざまる)の鎧は、代々源氏の嫡孫に相続されるべきものですから、家の郎等、雑色(ぞうしき・雑用係)に命じて、長男の下野守・義朝が元へ、これを遣わされたのです。為朝はその身体が人並み優れて、普通の鎧は身に合わず、常に鎧を着る事は有りません。

 また、この”膝丸”と申す鎧は、牛の千頭ばかりの膝の皮を取り出して作られたものですから、さぞ、牛の精も入っているのでしょう、着用しようとすると、、それが現われて、主を嫌うのです。されば、塵を払われることも嫌い、精進潔斎して、これを取り出したと言われています。

 かかる希代の家宝を、今は敵に組した我が子に送られる親の心の内こそ、推し量られて哀れなことです。

 (注1) *六条判官為義(ろくじょうほうがん・ためよし)・・・・当時の源氏の棟梁・源義朝の父。六条堀川に館が有りました。
    
 *六孫王(六孫王)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清和天皇の孫、源氏の姓を賜り、人臣に下った清和源氏の始祖。
    
 *伊予入道・源頼義(いよのかみにゅうどう・よりよし)・・・・・前9年の役で活躍した源氏の英雄。伊予の守を賜り、出家していました。
    
 *八幡太郎義家(はちまんたろう・よしいえ)・・・頼義の長男、後3年の役の英雄。京都・石清水八幡宮で元服しました。以来、八幡宮は源氏の守護神となりました。鎌倉の鶴岡八幡宮の謂れも、これから来ています。
 (注2) 源氏相伝の鎧(よろい)と太刀・・・・源氏には8領の鎧と、太刀”髭切”(ひげきり)が、義家から代々伝わっていました。この内、”源太が産衣”の鎧と、”髭切”の太刀は、源頼朝まで伝承されました。
 (注3) 鎮西八郎為朝・冠者(ちんぜいはちろう・ためとも・かんじゃ)・・・・源義朝の弟、暴れん坊で都に居れず、鎮西(九州)へ流されました。”冠者”・・・元服して冠を付けた少年、6位で官職の無い人。
 上巻 第九  左大臣殿上洛の事付たり著到の事

 さる程に、左大臣・頼長殿は輿にて、醍醐路(注1)を経て白河殿へ入られました。御供には、式部大輔・盛憲、その弟蔵人大夫経憲、前の滝口秦の助安等です。御車には、山城前司・重綱、菅給料登宣(注2)二人を乗せられて、あたかも御所へ御出ましの態にて、宇治より入りますと、夜半ばかりに、敵の基盛が陣の前を通り抜けられたのです。白河殿に到着して、重綱・登宣が、

 「嗚呼、恐ろしい目に遭った、鬼の餌食になるところであった」と申して、わななきながら御車を降りました。が、これを聞いた人々は、

 「漢の紀信が高祖の車に乗って、敵陣に入った心には、似ても似つかぬ」
(注3)と、口々に申しました。

 去る9日、田中殿より内裏へ書状が送られました。御使いには武者所近久です。この方は伶人(音楽を奏する人)近方の御子です。その御文に曰く、

 ”鳥羽院が崩御されて、万事を投げ打って追善の志を捧げました。今は旧弊を廃して、御政道の之あるところ、道々では争いが絶えず、都中が騒然として、人々が争い競い合っております。今は亡き鳥羽院の御志を、顧みないのも同じではありませんか。幕上の燕の巣くうを嘆くよりは、如何して折伏摂取の新儀を翻して、仁徳を致されないのでしょうか。天下が泰平にして平穏ならば、現世来世ともに神仏の加護が有るでしょう。
                                             不宣謹言  ”

 直ぐに内裏から返書が有りました。

 ” 御書拝見致した。そもそも、この争いの発端を尋ねるに、貴方を取り巻く太鼓持ちが、無謀なる企てを立てた事にある。古人曰く、”徳尊時者冶天下、乱時者取之、佞者亡国利也”。如何して、筆の述べる所だと言えようか。
                                               謹言 7月9日   ”


 7月7日 この御返書をその夜、左大臣頼長卿に御見せしました。

 新院・崇徳院の御味方に参りました人々には、左大臣頼長卿、左京大夫教長卿、近江中将成雅、四位少納言成隆、山城前司頼資、頼輔、美濃前司泰成、保成、備後権守俊通、皇后宮権大夫師光、右馬権頭実清、式部大輔盛憲、蔵人大夫経憲、皇后宮亮憲親、能登守家長、信濃守行通、左衛門佐宗康、勘解由次官助憲、桃園蔵人頼綱、下野判官代正弘、その子の左衛門太夫家弘、右衛門太夫頼弘、大炊助、度弘、兵衛尉時弘、文章生安弘、中宮侍長光弘、左衛門尉盛弘、平馬助忠正、その子院蔵人長盛、次男皇后宮侍長忠綱、三男〔次男〕左大臣匂当正綱、四男平九郎通正、村上判官代基国、六条判官為義、左衛門尉頼賢をはじめとして父子7人、都合その軍勢、1千余騎と記録されております。
(注4)
(注1) 醍醐路(だいごじ)・・・・奈良・宇治から都の東、山科へ抜ける街道。東海道と白川道に通じる。
(注2)菅給料登宣(かんきゅうりょう・なりのぶ)・・・・大学寮に所属する文章生で、給料が支給されていた。現在の給料の語源。
(注3) 高祖と紀信・・・・・・・・・紀元前204年 漢の時代 高祖(劉邦)と項羽の戦いにて、紀信は窮地に陥った高祖の身代わりとなって項羽を騙し、高祖を救ったが、自らは項羽に焼き殺された。
(注4) 新院に味方する人々・・・・藤原頼長の家臣、為義や為朝を始めとする源氏の面々、平忠正などの平家の面々が入り混じっており、この時はまだ平家と源氏と言った意識は希薄だったように思われます。
 上巻 第十   官軍召し集めらるるの事

 内裏(後白河院方)より、左大将公教卿、藤の宰相光頼卿(注1)の二人が、八条烏丸の美福門院の舘へ参り、権右小弁・惟方(これかた・注2)を以って、故・鳥羽院の御遺誡(ゆいかい・遺言)が披露されました。

 故・鳥羽院はこの度の兵乱を既に予知されていたのでしょうか、それには、内裏へ召されるべき武士の名前が書き記るされていたのです。書き連ねられた名前は、義朝・義康・頼政・季実・重成・惟繁・実俊・資経・信兼・光信などです。

 しかし、安芸の守・清盛はその配下に多くの武士を抱えていますが、彼の父・故刑部卿忠盛
(注3)が、新院の御子・重仁親王(しげひとしんのう)の傳(めのと・幼君を育てる人)にて、清盛は傳子(めのとご)ですから、故院はそれを気遣われたのでしょう、清盛の名前は記されていませんでした。

 しかし、美福門院が、謀(はかりごと)を以って、
 「故・鳥羽院の御遺誡に従って、内裏の守護し奉れ」と、清盛に御使いを送られたのです。清盛は御使いの趣に応じて、舎弟・子供を引き連れ、内裏へ参りました。

 内裏には諸国の国守・諸衛官人・各役所の判官が、兵杖(へいじょう)を帯して打ち揃って居りました。公家には、関白忠道殿下・内大臣実能・左衛門督基実(さえもんのかみ・もとざね)・伏見源中将師仲などが参られて居ります。

 (注1) 宰相(さいしょう)・・・太政官府(国会)の参議・・唐の呼称
 
(注2) 権右小弁(ごんのうしょうべん)・・・「権」・・臨時の官位、「右小弁」・・太政官府の事務・連絡を司る役職。
 
(注3) 刑部卿(ぎょうぶきょう)・・・・・・刑罰・訴訟を担当する役人。
 下巻 第十一   新院御所各門々固の事附たり」軍評定の事

 新院は、白河殿より北殿へ御移りになりました。左府・頼長殿は御車にて参ります。白河殿より北、加茂川より東、春日の末に有りますので、北殿と申します。

 南の大炊御門の面に、東西2つの門が有ります。東の門をば平馬助忠正が承って、父子5人、並びに多田蔵人大夫頼憲、都合2百騎にて固めました。西の門は、六条判官為義がこれを承って、父子6人にて固めましたが、その勢百騎ばかりです。本来なら源氏の軍勢ですから、猛勢揃いのはずですが、嫡子の義朝に従って、大勢が後白河帝の内裏へ参りましたので、かように少勢となったのです。鎮西八郎為朝は、

 「私は、親と一緒に戦う積もりはない。さりとて、兄達に付き従う積もりも更になし。高名・不覚(こうみょう・ふかく、手柄・失敗)が紛れぬ様に、私を唯一人、一番強い敵へ差し向けて下され。例えその敵千騎でも、万騎なりとて、一方へ追い払って見せましょう」、と申しました。そこで、西の川原面を、為朝が唯一人で固めたのです。北の春日面の門は、左衛門大夫家弘これを承って、子供を具して固め、その勢百五十騎と聞こえました。

 そもそも、この為朝一人にて、何故、殊更大事な北の門を固めたのかと申せば、彼の武勇が天下に聞こえていたからなのです。為朝の器量は人を越え、心あくまで剛にして、大力の強弓(ごうきゅう)にて矢継ぎ早やに射る事を得意としているのです。弓手(ゆんで・左)の腕(かいな)が、馬手(めて・右)の腕より4寸(12cm)長くて、矢を引かせれば、何人も及びません。

 幼少の頃より敵無く、兄弟にも及ぶ者も無ければ、傍若無人の振る舞い多く、都にその身を置く事差し障り有りとして、父・為義が勘当し、13の歳の時に鎮西(ちんぜい・九州)の方へ追い出したのです。為朝、始めは豊後の国に住いしていましたが、尾張権守家戸遠を育ての親とし、次には、肥後の阿蘇にて、平四忠景が子・三郎忠国の婿に入って、遂には、帝から賜りもせぬのに九国(きゅうこく・九州の9カ国)の総追捕使
(注1)と号して、筑紫を従えようとしました。

 菊池と原田らを始めとして、その地の豪族が、所々に城郭を構えて立て籠もったのですが、

 「その儀ならば、奴等の城を落として見よう」と申して、未だ軍勢も揃わないのに、三郎忠国ばかりを案内人に仕立て、13歳の3月から15歳の10月までに、大きな軍さをする事、20余度、城を落とすこと数十箇所に及びました。城を攻める謀(はかりごと)、敵を討つ手立ては他人に優れ、3年が間に9国
(注2)を攻め落としたのです。

 その上、自ら総追捕使と名乗って、悪行の限りを尽くしました。香椎の宮の神官らが都へ上り、為朝の暴挙振りを訴えましたので、去る久寿元年11月26日、徳大寺中納言・公能卿をを奉行として、外記(げき・上奏文を書く役人)に仰せて、宣旨が下されました

  ”源為朝大宰府(九州)に久しく住んで、朝憲(ちょうけん・国のきまり)をゆるがせにして、ことごとく帝の御言葉にも背むく。人道にももとる行いも頻りに聞こえて、狼藉甚だし。速やかにその身を戒めるべし。よって、宣旨の伝達、くだんの如し。”。

  しかれども、為朝は、なをも上洛しませんでした。そこで同2年4月3日、父・為義を解官して、検非遺使の職を取り上げられたのです。為朝これを聞いて、
 
 「我の為に、親の咎(とが・罪)になるとは情けなや。その儀ならば、我こそ如何なる罰も受けよう」とて、急ぎ都へ上らんとしますと、国の人々皆、彼と供に上洛する由申します。

 「大勢にて馳せ上れば、不穏な噂が流れるであろう」と申して、形ばかりの兵を召し連れ、上洛したのです。為朝に付き従った兵どもは、乳母子(めのとご)の箭前払(やさきばらい)の須藤九郎家季、その兄で戦い上手な悪七別当、手取りの与次、同じく与三郎、三町礫(つぶて)の紀平次太夫、大の矢の新三郎、越矢の源太、松浦の次郎、左中次、吉田の兵衛太郎、打手の紀八、高間の三郎、同じく四郎を始めとして、総勢28騎を連れて上洛しました。

 為朝は、7尺(2m余)ばかりの大男の目の端が切れ上がり、褐色に色とりどりの糸にて、獅子の模様を縫い付けた直垂
(注3)に、八龍と言う鎧に似せて、白き唐綾おどしの大荒目(注4)の鎧に、同じく獅子の金物打ったるを着て、3尺5寸(1.1m)の太刀を、熊の皮の鞘に入れ、5人掛かりで張る弓と、長さ8尺5寸の黒羽の矢36本を負って、甲をば郎等に持たせて歩み出す姿は、まるで樊?(はんかい・高祖の幼なじみ)にも劣らないでしょう。

 その謀(はかりごと)の見事さも長良(ちょうら・高祖の参謀)に劣りません。されば、守りの堅い陣を打ち破る事、呉子・孫子(何れも、三国志の軍師)が難しとする所も難なく破り、その弓は養由(ようゆう・漢の弓の名人)をも恥じず、天をかける鳥・地を走る獣も、彼を恐れたと申します。

 都に上がりますと、崇徳上皇をはじめ、人々こぞって、音に聞こえし為朝の、その姿一目見んとて集まりました。

 左府・頼長殿に、
 「合戦の趣き、汝の考える所を申せ」と尋ねられれば、為朝畏まって、
 「この為朝、久しく鎮西に住み仕って、九国の者ども従えるための合戦は、大小数知れず、中にも懸命の合戦は20余度に及びます。或いは敵に囲まれて強陣を破り、或いは城を攻めて敵を滅ぼすには、味方が有利な夜討ちに勝るものは有りません。されば、直ちに高松殿(後白河帝の住い)に押し寄せて、三方に火をかけ、一方にて支えれば、火を免れんとすれば矢を免れず、矢を恐れる者は火を逃れ得ず。

 主上方の勢は左程、恐れるに足らずと覚えます。但し、兄の義朝などは、煙の中を駆け出でて来るでしょうから、それも 真正面から射落として見せましょう。まして清盛などのへろへろ矢など、何程の事が有りましょうや。鎧の袖にて打ち払い、蹴散らして捨てましょう。帝が御出ましになって、他所へ御移りになられるならば、御許しを蒙って、御供の者に少々射掛ければ、定めて御輿を投げ出して、逃げ出すに相違有りません。

 その時、為朝が参り向かって、帝をこの御所へ御連れし奉り、君をば御位に就け参らせん事、掌(たなごころ)を返すが如く容易い事です。帝を御連れ参らす事など、為朝が矢を2,3つ放つばかりにて、未だ夜の明けぬ前に、勝負を決する事、何の疑いが有りましょうや」と、誰憚ることなく申しますと、頼長殿が申されるには、

 「為朝の申し状、以ての外の乱暴なり。汝の歳の若きが致す所か。夜討ちなどと申すは、汝らが同士の小競り合いか、10騎20騎ばかりの私闘ではないか。この度の軍さは、何と申しても、主上と上皇がなさる御国争いぞ、源平両者が数を尽くして勝負を決っせんとするのに、無下に左様な戦いはすべきではない。

 その上、南都(奈良)の僧衆を召される御積りである。興福寺の信実・玄実などと申す僧兵、吉野、十津川の指矢三町・遠矢八町などの法師を召して、総勢1千騎が今夜宇治に着き、富家殿へ見参して、暁にはこれへ参る。彼らを待って兵を整え、合戦をば致すべきであろう。

 また、明日、院の公家や司など殿上人達を集めようと思う。もし、参らぬ者があれば死罪にすべし。2,3人も首を刎ねれば、残りは如何して馳せ参ぬ者が有ろうか」と仰せられれば、為朝も、うわべは承服しつつ、御前を罷り出でて、呟くには、

 「戦いは和漢の先例や朝廷の法には、到底馴染まぬものなれば、合戦の道は武士にこそ任せるべきなのに、戦いの思案もない御はからいは、如何なものであろうか。

 兄の義朝は、武略の奥義を極めた者なれば、定めて今夜攻め寄せるであろう。明日まで戦いが延びればこそ、吉野の法師も奈良の僧衆も参るであろうが、敵が今夜にも寄せて、風上に火を掛けられれば、如何に戦かおうとも、どうして我が方に利があろうか。敵が勝つ事を分かっていながら、誰が安穏としていられようか。ほんに口惜しき事かな」、申しました。

 (注1) 総追捕使(そうついぶし)・・・・一国又は数国を守護する役職。
 (注2) 九国(きゅうこく)・・・・豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隈の九国。
 
(注3) 直垂(ひたたれ)・・・・武家の平服
 
(注4) 大荒目(おおあらめ)・・・・鎧の形の一種。
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