下巻第55話
      

           平成17年11月28日
 
 安徳帝の遺品

 建礼門院は剃髪の御礼として、女院が形見にと所持されていた安徳天皇の衣服を差し出されました。当寺ではそれを幡(ばん)(旗の事)にして現在まで保存されています。
     (長楽寺パンフレットより)
  長楽寺      書 院
長楽寺
京都市東山区
交通機関 市バス「祇園」下車 神幸通りを東へ徒歩15分
長楽寺の概要
 
 壇ノ浦の戦いで捕らえられ、都へ連れ戻された建礼門院は、その身柄をこの寺の近く、吉田の廃屋に一時預けられました。そして、当寺の住職・印誓を介して髪を下ろされた後、大原・寂光院へ移られたのです。時に1185年9月、壇ノ浦の戦いの日から半年後のことです。

 門院は、寺へのお布施が無かったものですから、形見として所持されていた安徳帝の衣服を、納められたと平家物語でも語られていますが、当寺では、これを幡(ばん)(旗の事)に縫い直して、今でも大切に保存しています。あれから800余年、この旗を見ると、平家物語が絵空事ではなく、真実を基にした物語で有ることが、実感させられます。また、日本人の物を大切にする心には驚かされてしまいます。


 
なお、”灌頂”と言うのは、詳しくは知りませんが、頭に水を掛ける仏教の儀式で、キリスト教の洗礼の儀の様なものだということです。
 灌頂の巻 八、女院御出家の事
 建礼門院供養塔

 建礼門院は、東山の麓、吉田のほとりなる所にぞ、たち入らせ給ひける。中納言法印慶慧と申す奈良法師の坊なりけり。住み荒らして年久しうなりければ、庭には草深く、軒にはしのぶぞ茂れり。簾は絶えネヤ露にて、雨風たまるべうもなし。花は色々匂へども、主と頼む人もなく、月は夜夜さし入れども、詠めて明かす主もなし。


 あらすじ

 壇ノ浦にて捕らえられ、都へ連れ戻された建礼門院は、東山の麓の、昔は中納言・慶慧法師が住はれていた館に入られました。住み荒らして久しく、庭一面に雑草が生い茂り、軒も傾いて、しのぶで覆われています。簾も朽ち果てて、風雨に耐えず、夜露をしのぐのさえ、ままならない有様です。それでも、庭のあちこちに花が咲き、夜は月の光も差し込みます。が、それを愛でる主も、今は居りません。

 昔は玉座のお側で、錦の帳に囲まれて過ごされた御方が、縁ある方々とも別れて、この様な廃屋に、只1人住まなければならなくなった心の内こそ、推し量られて誠に哀れなことです。まるで魚が陸に上がり、鳥が巣を離れた様なものです。波の上に漂い、苦しかったあの船上での生活が、今では懐かしく恋しく思われたに相違有りません。西海の蒼い海に思いを馳せ、今は東山に懸かる月を見て、ただ涙にくれるばかりでした。

 かくして門院は、この地にて御髪を下ろされました。戒師は長楽寺
(写真)の印誓上人と言うことです。御布施には、安徳帝の御衣を差し出されました。帝が今はの際まで、お召しになっていたものですから、移り香も未だ失せず、御形見にとて、西海より遙々と都までお持ちになったのです。何時までも肌身離さぬおつもりでしたが、他にお布施になるような品物もなく、帝の菩提を弔う為にとて、泣く泣く差し出されたのです。

 これを御受けした上人も、何と申して良いのやら、墨染の衣に顔を押し当てて泣くばかりでした。後に、この御衣を幡(ばん)に縫い直して
(写真)、長楽寺の仏前に掛けられたと聞いております。

 門院は、15歳にて入内し、そして16歳で后になられ、22歳の時皇子御誕生、すぐに皇太子に立たれましたので、彼女にも称号が送られて、建礼門院と呼ばれるようになりました。清盛入道の御娘で、天子の国母になられたのですから、それは、下へも置かれぬ大切な御方でした。

 その御方も、今は御歳29歳になられます。桃李の装い・芙蓉の御姿は、未だ衰えを知らぬ美しさですが、今更、翡翠の簪を付けられる訳でもなく、遂には、御髪を御下ろしになられたのです。浮世を捨て仏の道へ進まれたとは言え、御嘆きは深まるばかりで、消えるものでは有りません。

 今はこうとて、海に沈んでいった人々、殊に我が子・安徳帝や、御母・二位殿の面影が、ひしと身に付いて、忘れることなど出来る筈もありません。なんで私ばかりが命永らえて、こんな憂き目に遭わなければならないのか、思えば涙に咽ぶばかりです。

 五月の短い夜さえ、明かしかねて眠られぬ夜、微睡んで見る夢は昔の事ばかり、窓を打つ雨の音が、終夜、寂しく響きます。山から山へ、不如帰が二声、三声無き渡り、昔の主が植えたのでしょう、花橘が、風に乗って軒下近くまで薫ってきます。門院は、昔の事などを思われて、古歌を硯の蓋にお書きになりました。

        
 ほととぎす 花たちばなの 香をとめて
                鳴くや昔の 人ぞ恋しき

                         
                                    
(注)新古今和歌集 詠み人知らず

 あの時、 門院に仕えていた女房達も、皆海の底へ沈まんとしたのですが、心無い武者達に引き揚げられて、故郷へ帰って来ました。今は皆、様を変えて出家し、あちこちの谷底・岩の間に隠れ住んでいます。昔住んでいた館は悉く煙となりました。空しき跡地ばかり残って、草茂る野原となり、今は見慣れし人の訪ねることさえありません。昔、劉晨らが天台山から帰ってみると、村には7世後の孫が住んでいたと言うお話も、この様な事を言うのでしょう。
(注1)


 (注1)昔、劉晨(りゅうしん)らが天台山から帰って・・・中国の昔話・薬草を採りに天台山へ登った劉晨(りゅうしん)らが、道に迷って、半年後に村へ帰った時には、7代後の孫にあったと言う、日本の浦島太郎の話とよく似たはなしです。


          長楽寺  秋の鐘
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