伊賀上野市(生誕の地) 芭蕉庵にて 
   

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。

 古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、・・・・
奥の細道巻頭より)


 元禄元年(1689)、江戸深川の庵・「芭蕉庵」に住んでいた俳人・松尾芭蕉は、古人の足跡を訪ねんと、弟子の曽良を伴い、陸奥への旅に出ました。

 取り分け、源平合戦に因んだ物語に厚い想いを抱く芭蕉は、江戸を霞とともに立って、夏木立の白河等赴く先々にて、その史跡を訪ね、古人を偲んで俳句を詠んでいます。

 そこで、芭蕉の旅日記・「奥の細道」に掲げられた、源平に係わる代表的な作品を拾い上げてみました。
 ” 木曽殿と
   背中合わせの
       寒さかな ”
        
又 玄(ゆうげん)
 

 元禄7年(1694)大阪にて客死した芭蕉は、門下の其角・去来らによって、舟にて淀川を遡り、鳥羽の港(伏見区)から当寺に運ばれて、生前の彼が望みどおり、木曽義仲公と背中あわせに葬られました。奥の細道の旅から5年後の秋、享年51歳。

 ”義仲の 
      寝覚めの山か 
            月悲し ”
 ”木曽の情
      雪や生えぬく
            春の草 ”

        
              芭 蕉
   
大津市 義仲寺内 翁堂
 正面祭壇に芭蕉翁坐像が安置されています。  
           枚方市  重田氏撮影

 その1 白河の関にて 能因法師・源三位頼政らを偲びつつ
  

  ”心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。いかで都へと便り求めしも理なり。中にもこの関は三関のひとつにして、風騒の人心をとどむ。
 秋風を耳に残し、
紅葉をおもかげにして、青葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。 ”   
      卯の花をかざしに
            関の晴れ着かな 
    曽 良
 要 約
 先人達が能因の歌に敬意を表して、冠を正し正装して白河の関を越えたと言う故事に倣って、私たちも、普段着のままでは失礼だから、晴れ着に代えて、道端に咲いている卯の花を一枝、頭にかざして越えることにしましょう。     
                                     

 解 説
 白河の関は、能因法師(988−?)の名句によって、都人の憧れの地となりました。又、この関は、”みちのく”への入り口でもあります。芭蕉が訪れた時代には、関は跡形もなくなっていたそうですが、曽良が先人の遺徳を偲んで、この歌を詠いました。

 卯の花と言うのは、小学校唱歌に、”卯の花の匂う垣根に、不如帰早も来鳴きて・・・”と、歌われているように、田植え頃に咲く、雪の様な白い花のことでしょう。

 文中”いかで都へ”と”紅葉をおもかげにして”は、平兼盛と源三位頼政の歌を意識して、織り込まれたものです。しかし、不思議なことに、何故か芭蕉自身は、白河の関では歌を詠まず、随行の曽良のみがこの歌を詠みました。

 白河の関を詠った古人の代表的な歌は、

        都をば霞とともに立ちしかど
           秋風ぞ吹く白河の関 
   能因法師

    
 都にはまだ青葉にて見しかども
           紅葉散り敷く白河の関
   源三位頼政

     
便りあらばいかで都へつげやらむ
             今日白河の関は越えんと
  平 兼盛

    
 秋風に草木の露を払わせて
             君越ゆるれば関守もなし
  梶原景季
     (梶原景季が源頼朝に従って、藤原泰衡討伐のために、この白河の関を越えた時に詠いました。)
     
     白川の関屋を月のもる影は
             人の心を留むるなりけり
     西行法師

 等があるそうですが、頼政が何時この地を訪れたかは、私は知りません。(能因法師と同じように、白河を訪れなかったのかも・・・。)

 余談ですが、摂津に居を構える能因法師は、この歌を自宅で作ったのですが、余りに良い出来だったので、見たこともない白河の関へ、さも旅した如く装うために、半年余りも家の門を締め切り、顔を日に焼いて、黒くしたと言う噂が流れました。江戸の川柳に、
    
     ” 能因は 一つの嘘を 小半年 ”
   
 ” 白河の名歌 能因 黒くなり ”

 と言うのが有りますが、それを皮肉ったものです。 
                       

 
その2  瀬の上(福島市)にて、佐藤嗣信・忠信兄弟を偲んで

 
”月の輪の渡しを越へて瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて、尋ねたづね行くに丸山といふに尋ねあたる。・・・・・
 寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶の笈をとどめて什物とす。”

     
   
       笈も太刀も 五月に飾れ 紙幟 
  
 要 約
  頃は端午の節句、村の家々には、節句を祝う紙幟(かみのぼり)が、五月の風にはためいています。先程、私たちがお茶を所望した医王寺の、本堂に納められた義経の太刀や弁慶の笈子(おいこ)も、紙幟と一緒に五月の空に飾って欲しいものです。

 解 説
 陸奥の雄・藤原秀衡が、頼朝の元へ馳せ参じる源九郎義経に付けてくれた佐藤嗣信・忠信兄弟は、瀬の上・飯塚の里の出身です。嗣信は屋島にて、忠信は都で、それぞれ、義経の身代わりとなって、討ち死にしました。
 腰越にて頼朝と仲違いし、都を追われた失意の義経一行は、藤原秀衡を頼って平泉へ赴きました。途上、この地を訪ねて、佐藤兄弟の霊前に、義経が太刀を、弁慶が笈子(おいこ・修験者が仏具・衣服・食料などを入れて、背に負う入れ物)を、それぞれ捧げました。
 
 その後、飯塚の里の村人達は、佐藤兄弟の忠義を讃えて、義経らが捧げた太刀等とともに、医王寺や神社に御祀りしました。

 それから400年の歳月が流れ、芭蕉らが当地を訪れた時には、二つの品は、医王寺の奥深くに納められていたのです。
 芭蕉は、時の流れの中で、忘れ去られようとする佐藤兄弟の美談を惜しみ、この俳句を詠んだのでしょう。

 
 その3  平泉・高舘、衣川の古戦場にて、滅んでいった藤原三代や義経等を偲んで

 ”三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一理こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高舘に上れば北上川南部より流れる大河なり。(下記写真参照)。衣川は和泉を巡りて高舘の下に大河に落ち入る。・・・・・・・
 功名一時の叢となる。「国敗れて山河あり。城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて時の移るまで、涙を落とし侍りぬ。”


      1,  夏草や 兵どもが 夢の跡     芭 蕉
 要 約
 ”藤原三代100年の栄華は、衣川の戦いで一瞬の内に消えてしまいました。滅んでいった兵士達は、如何る夢を抱いていたのでしょうか。「国破れて山河あり 城春にして草木深し」(注1)、今、私は夏草が茂るこの高舘の地に笠を打ち敷き、時の経つのも忘れて、400年の昔を偲び涙を流しています。”
    

      2, 卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな   曽 良
 
 要 約
 ”義経と共に討死した忠義の侍・増尾兼房は老臣の身でした。今、風にそよぐ白い卯の花を見ていると、白髪を振り乱して戦った、あの兼房の姿が想われてなりません。”

     3, 五月雨の 降り残してや 光堂     芭 蕉
 要 約
 ”時が流れて400余年、藤原三代を物語る遺跡は、雨や風に朽ち果て、悉く消えて行きました。ただ、三代の遺骨を納めた光堂だけが、五月雨も降り込むのを遠慮したのか、今も燦然と輝いています。”

 解 説

 芭蕉は、今回の旅の目的地の一つとしていた、憧れの地・平泉を訪れました。黄金を背景に、藤原三代が100年に渡って築き上げ、栄華を誇った”みちのく”の都・平泉も、あの一戦で見る影もなくなり、今はただ、夏草が生い茂っています。

 この光景を目の当たりにした芭蕉は、今更ながら、諸行無常・栄枯盛衰を感じて、溢れる涙を禁じえませんでした。その中で、金色堂だけが、五月雨の中でも、燦然と輝いておりました。
 
 (注1)春望 杜甫の詩 (天保14年・575)安禄山の乱で捕らえられた杜甫が、獄中で詠んだ詩です。

    国破れて山河有り 城春にして草木深し
      時に感じては 花にも涙をそそぎ 別れを恨んで鳥にも心を驚かす
    烽火三月に連なり 家書万金に値す
      白頭掻けば更に短く 渾て櫛に耐へざらんと欲す ”


高館(たかだて)から、北上川を臨む。

 松尾芭蕉は、この高館から、北上川を眺めながら、”兵ども(つわものども)が夢の跡”と詠い、”国破れて山河あり・・・”と吟じて、時を忘れ感涙を流したのです。
 但し、季節は夏でしたが・・・。

左記の画像はから、製作者の承諾を得て、転載しました。
 
 その4 越前小松の多太神社にて、斉藤実盛を偲んで
 

 ”この所多太の神社に詣づ。実盛が甲、錦の切れあり。往昔源氏に属せし時、義朝公より賜はらせたまふとかや。げにも平士のものにあらず、庇より吹き返しまで菊唐草の彫もの金をちりばめ、竜頭に鍬形打ったり。実盛討死の後、木曽義仲願状に添へて、この社にこめられはべるよし。樋口の次郎が使いせしことども、まのあたり縁起に見へたり。”

       無惨やな 甲の下の きりぎりす
 要 約
 木曽義仲の手によって、多太神社に奉納された斉藤実盛の甲も、今はすっかり錆びにまみれてしまいました。静寂つつまれた御堂から聞こえるのは、ただキリギリスのすすり泣き。故郷に錦を飾らんと、決死の覚悟で挑んだ戦いでしたが、無残にも敗れて討たれた老將・斉藤実盛の、無念の叫びでしょうか。

 解 説

 斉藤実盛は、越前の生まれですが、源氏に組みして、関東に領地を持っていました。
その頃、源義朝と、その弟で、木曽義仲(幼名・駒王丸)の父でもある源義賢が、領地争いを起こし、義朝の息子・悪源太義平の手によって、義賢は殺されてしまいました。

 義朝は、家臣の畠山重能に、子の駒王丸(当時2才)も殺すよう命じましたが、畠山には、幼い駒王丸に手を下すことが出来ません。そこで、同僚の斉藤実盛にこれを託しました。実盛は、駒王丸を養子にしようと、暫くは匿っていたのですが、追及が激しくてそれもならず、密かに信州・木曽の中原兼遠に預けたのです。

 時は流れて25年、義朝は平治の乱に破れてこの世になく、故あって斉藤実盛は、平家の内大臣・平宗盛卿の配下にいました。

 彼は、富士川の合戦に、平家軍・7万余騎の軍師として、大将軍・平惟盛卿に従い、頼朝に対峙しましたが、見事に惨敗してしまいました。実盛はその責めを、痛切に感じておりました。

 今度は、木曽義仲との戦いです。戦いの場所は、生まれ故郷の越前に近い北国です。実盛は故郷に錦を飾り、富士川の恥辱を晴らさんと、老齢を隠すために白髪を黒く染めて、決死の覚悟で臨んだ倶利伽羅峠でしたが、これも惨敗しました。

 敗走する平家軍から離れ、死に場所を求めた実盛は、篠原にて木曽の若武者に果敢に挑みましたが、遂には討ち取られてしまったのです。実盛・時に74才ということです。討たれて、死んで行く実盛の心の底には、一時は自分の養子として育てようと思った駒王丸(木曽義仲)が、成長して敵の大将軍になっていたのですから、一目逢いたいと思う気持ちが、あったかも知れません。

 首実検をした木曽義仲は、「無惨やな、これこそ斉藤実盛」と、涙を流し、亡骸を丁重に葬ったと言うことです。また、実盛の被っていた甲は、昔、実盛が義朝から拝領したものでしたが、義仲の手により、多太神社に納められました。

 それから400年、この多太神社を拝観した芭蕉は、万感を込めて、この句を読みました。
 
 (上の句の無慚やな”は、首実検の折、斎藤実盛の首を見た木曽義仲の家臣・樋口次郎が、”あな無慚、斎藤別当にて候ひけり”と、叫んだ所から、取られています。(上巻83話参照のこと)

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