歌人 薩摩守忠度の別れ
     
藤原俊成の邸宅跡
中京区烏丸五条下ル 俊成町 地下鉄 五条烏丸下車 徒歩5分
 祠前の案内板
 俊成社の概要
 
 藤原俊成は平安末期から、後白河法皇の勅命で、千載和歌集の編纂に携わりました。また、俊成は、小倉百人一首を編纂した、藤原定家の父でもあります。

  この場所が、平家物語の舞台となった屋敷跡と思われます。

 
 俊成に想いを託した忠度は、心晴れ晴れと西国へ向いますが、一の谷の戦いで、義経軍に敗れて討ち死にしました。その死は、源平両軍の武者に惜しまれたと言うことです。
(下巻第21話 「忠度の最期の事」 参照)

 西海で散った薩摩守忠度の辞世の句も、俊成の許へ届きます。(謡曲 「俊成・忠度」) 落ちぶれた薩摩守の心境が歌に込められて、哀れな旋律が印象的です。

 行き暮れて 木の下陰を 宿とせば
       花や今宵の 主ならまし

                    
                            (辞世の句)
 
 藤原俊成は、平安時代を代表する歌人でもあり、百人一首には、次の歌が載せられています。

 ” 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入り
        山の奥にも 鹿ぞ鳴くなむ ”



 尋常小学校唱歌(明治39年)
 
”更ける夜半に 門を叩き
 我が師に託せし言の葉哀れ
 今わの際まで
 持ちし箙(えびら)に
  残れるは 
      
花や今宵の歌 ”

  作詞 大和田 建樹
 曲は、敦盛の”青葉の笛”と同じです。(下巻 第23話参照)

 上巻 巻七 十五「忠度都落の事」より


長等山園城寺から北に広がる志賀の里と琵琶湖
薩摩守忠度は、いづくよりか帰られたりけん、侍五騎童一人、我が身共に混甲七騎、取って返し、五条の三位俊成の卿の許におはし見給へば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度」と名のり給へば、「落人の帰り来たれり」とて、その内騒ぎあへり。
志賀の都(長等山園城寺・三井寺から)
 滋賀県大津市長等

 
忠度卿は、成務天皇(紀元前131)の代に、近江の国・志賀の里に 都を遷されたのを偲んで、この歌を詠いました。なお、歌の中に読み込まれている”ながら”は、漢字では”長等”と書きますが、地名として現在も使われています。また、同地の三井寺の正式名称は、”長等山園城寺”と申します。
  
  ” さざなみや 志賀の都は あれにしを 
             昔ながらの 山桜かな
 ”
                 
詠み人知らず 
 
あらすじ
 

 都を落ちられたはずの薩摩守・忠度(さつまのかみ・ただのり)が、いづこより立ち帰られたのでしょう、侍五騎と童(わらべ)一人を伴って、取って返し、五条烏丸・
藤原俊成卿(写真)の館の門前に立たれた薩摩守が、

 「忠度なり」と、名乗りを挙げましたが、館の内では、
 「落ち武者が帰り来たり」と、立ち騒ぐばかりにて、門を開けようとはしません。

 薩摩守、急ぎ馬から降りて、
 「三位殿(俊成のこと)に申したき事あって、薩摩守・忠度がまかり越した。たとえ、門は開かずとも、近くへ立ち寄り給え。」と、大声にて申しますと、俊成卿が、

 「忠度殿なら障りなし、開けて通せ」とて、門が開いて対面されたのです。

 薩摩守の申しますには、
 「先年お伺いして以来、この2・3年は心ならずも、都の災い、国々の乱れが、当家の上に降り掛かって、お伺いも出来ませんでした。帝が既に都を出でさせ給えば、一門の運命も、最早、尽き果てんとしています。

 それにつけても、勅選和歌集
(注1)の編纂は沙汰止みとなった由、無念に存じます。しかし、世の中が静ますれば、また勅命が下ることと存じます。貴方の御蔭を賜って、この巻物の中の、たとえ一首なりとも載せて頂けたなら、草葉の陰にても嬉しく思い、この世の御守りともなりましょう」と、箙(えびら)(注2)から巻物を取り出だして、俊成卿に差し出しました。

 これを手に取った俊成卿は、
 「このような忘れ形見を給わった上は、決して粗略には致しませぬ。かような時に、よく御出で下された。貴方の深い思いに、感涙いたしました」と、申されました。願いを聞き届けられた薩摩守は、

 「例え、屍(しかばね)を野に晒し、憂き名を西海に流そうとも、これで、この世に思い残す事は有りませぬ。さらば暇(いとま)申します」とて、甲の緒を締めて、馬にうち乗り、西を目指して歩ませたのです。

 俊成卿が門前に立って、見送っていますと、

   ”前途程遠し、思ひを雁山(がんざん)の夕べの雲にはす”
(注3)と、遠くで高らかに詠う、薩摩守と思しき声に、俊成卿も思わず涙されるのでした。

 その後、世の中が落ち着いて、俊成卿は千載集(せんざいしゅう)を編纂されましたが、薩摩守・忠度の在りしの姿、言い残されし言の葉、今更思い出されて哀れに思われ、忘れ形見の巻物の中の数ある歌の中から、次の歌を選ばれたのです。なお、同人はすでに、朝敵(ちょうてき・朝廷に反逆する者)となっていましたから、それを憚って、作者名は、「読み人知らず」となっています。

 
    ” さざなみや 志賀の都は あれにしを 
               昔ながらの山桜かな
 ” 
詠み人知らず 千載集 (注4・写真)
   


  (注1) 勅選和歌集(ちょくせんわかしゅう)・・・天皇の御下命を受けて、編纂した和歌の事。
  
(注2) 箙(えびら)・・・・矢を入れて背中に背負う武具、通常は24本の矢の他に、
                  
紙や筆記具なども入れることが出来ます。  
  
(注3) 和漢朗詠集・・・大江朝綱の作
                 ”前途程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。
                       後会期遥かなり、纓を鴻臚の涙に霑す。”

                
( 9世紀 渤海の国の使者を都の迎賓館(鴻臚館)に迎えた朝綱が、
                 使者との別れを惜しんで詠じた漢詩です。)


   (注4) 
志賀の都・・・・・成務天皇(紀元前131)の代に、近江の国・志賀の里に 都を遷されたの
                 を偲んで、詠われました。なお、歌の中に読み込まれている
”ながら”は、
                 漢字では
”長等”と書きますが、地名として現在も使われています。
                 また、同地の三井寺の正式名称は、
”長等山園城寺”と申します。
   
   (
* 謡曲の世界では、千載集に載せられた歌の作者が”読み人知らず”となっていたことから、
      これを怨めしく思った忠度公が、幽霊となって出没するそうです。)
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