平家物語のはじまり
   八坂神社(祇園社) 平成17年11月28日                       寂光院 秋  夕 鐘    平成14年11月

 
八坂神社(祇園社)の概要
  交通機関: 京阪四条下車徒歩東へ10分もしくは、市バス「祇園」下車すぐ

 祇園精舎について

 
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・”、平家物語 巻頭の”祇園精舎と申しますのは、インドの或る長者が釈迦の為に、修業の場として寄進した寺の名称です。私たち京都市民が,日頃親しみをこめて、”祇園さん”と称している写真の八坂神社も、昔は坊さんたちが修業の場として使用していたので、インドの精舎に倣って名付けられたのでしょう。(八坂神社という名称は、明治になって命名されたもので、江戸時代までは、”祇園社”と呼ばれていました。)

 大晦日の深夜には、オケラ参りの人々で、又、初詣客で賑わう元旦の様子は、NHKのテレビ中継でも、毎年放映されるお馴染みの光景です。それから、都の夏を彩る、祇園祭の元締めでもあります。御神体はヤマタノオロチ退治で有名なスサノオノミコト、櫛稲田姫、地獄の番人・牛頭天王が祀られています。

 当神社は平安時代の初期、都の流行り病を鎮めるために御祀りされたもので、祇園祭の起源は貞観年間(869)までさかのぼるそうです。

 神社の境内を抜けると、しだれ桜で有名な円山公園、更に行くと、うぐいす張りと、甚五郎の忘れ傘でお馴染みの知恩院、青蓮院、平安神宮へと続く、歴史京都のメインストリートです。

 沙羅双樹について

  
沙羅双樹と申しますのは、インドの各地を修行中のお釈迦様が、クシナガラで病いに倒れて亡くなられた時、散った花びらがお釈迦様の御身体を包んだと云われるインドの花木・沙羅です。 朝早く咲いた椿に似た純白の花が、夕方にはたちまち無慚な姿にて散ってしまうところから、果かない人間の一生に喩えられています。

 寝床の4隅に2本づつ生えていたところから、沙羅双樹と呼ばれて、日本には自生せず、花が似ている
高木の花木・”夏椿”をそう呼んでいます。京都では、妙心寺内東林院(トップページの写真)や、嵯峨鹿王院の沙羅双樹が有名です。

 東林院では、毎年6月15日から7月5日まで”沙羅双樹を愛でる会”が催されますので、同期間中、沙羅が勧賞できます。但し有料です。



 ”街道を行く” 「高野道から」
            司馬遼太郎

 「これはナツツバキですね」
 植物好きの須田画伯が、鉛筆のシンで汚れた手で、沙羅双樹の幹をなでた。

 沙羅双樹はインドではごくありふれた森林植物だが、釈迦がクシナガラで入滅したとき、その寝床の四隅にこの木が枝葉をしげらせていたために、仏教ではこの木を尊ぶ。

 ただし日本では沙羅双樹の木がないために、古来、寺々ではナツツバキを代用して植え、それをもって沙羅双樹とよんできた。原思想と日本文化の関係も、多分にそれと似たようなものがあるのかもしれないとも思われた。
 京都嵯峨  鹿王院の沙羅双樹
 本物の沙羅双樹の花!!

 左の写真は、釈迦入滅の時、精舎の4隅に咲いていた、インドに自生する本物の沙羅の花です。提供して下さった写真家・伊藤さんのお話では、

 撮影場所:滋賀県草津市の水生植物園
 撮影年月日:平成17年2月18日

 日本で花が咲いたのは、この植物園が始めてだそうです。

 司馬遼太郎氏も述べられているように、インドではありふれた花木だそうですが、夏椿に馴染んだ私には、その花の異様さは驚きでした。

 釈迦にまつわる娑羅双樹のお話は、日本人の文化の中で出来上がったと述べられている司馬氏の言葉に同意せざるを得ません。
 インドの沙羅の花    滋賀県草津市  水生植物園
 元祖 インドの沙羅双樹に出会えます!!  写真紀行 ”Gallery ITO”

 物語のテーマ等
 
 物語の出だしの名文句の元は、中国の仏典から引用されたもので、諸行無常・生者必滅・会者定離と言った言葉は、以前から僧侶の法話の中で、使われていたそうです。

  平家物語は、「生者必滅」と、各々が持って生まれた「運命」をテーマとしています。源平の武者のみならず、老いも若きも・帝から遊女まで、様々な人々が、人の力を以てしては抗い切れない、この2つの理(ことわり)に翻弄されて、藻掻き苦しむ人間模様が描かれています。また、2つの理は、何時の時代にも共通する永遠のテーマであり、読む人の心を引きつけて止まない、不思議な魅力の一つとなっています。

 「
生者必滅」と言う言葉は、この世に生存する総ての者は、何時かは必ず滅びるという事を意味しています。作者の信濃前司行長が、これを「盛者必衰」に替えたのは、平家一門の盛衰を意識して、変更したものとも言われています。

 物語を読み進む程に、古えの様々な和歌集から採られた句の一節や、源氏物語などの一場面のみならず、中国の故事が、随所に織り込まれている事に驚かされます。

 琵琶法師が語る平家物語の聴衆は、全国津々浦々に暮らす名も無き市民でした。彼らには、この難解な物語に耳を傾けて、楽しむ程の素養が備わっていたものと推察されます。当時の日本人の知識水準の高さと、心の豊かさは、現在の我々よりも、余程、進んでいたのではないでしょうか。

 平家物語の底辺には、当時、法然上人が黒谷の草庵(現・金戒光明寺)にて唱えられた浄土信仰が流れており、作者は、一の谷や壇ノ浦で討たれた公達の鎮魂の想いを込めて、この物語を作ったと言われています。

        
    敦 盛 
須磨寺宝物館
    
上巻 第一 「祇園精舎の事 」から 平家物語 原本

 
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
   沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
   驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
   猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

 
 
遠く異朝をとぶらうに、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱い、唐の禄山、これらは皆舊主先王の政にも従はず、楽しみを極め、諫をも思ひ入れず、天下の乱れんことも悟らずして、民間の憂ふる所を知らざりしかば、久からずして亡じにし者どもなり。
 
近く本朝を窺うに、丞平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらは驕れる事も猛き心も、皆とりどりなりしかども、間近くは、六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣と申しし人の有様、伝え承るこそ、心も言も及ばれね。その先祖を尋ぬれば桓武天皇第五の皇子、葛原の親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛の嫡男なり。

 
高望の王の時、平の姓を賜って、国香より正盛に至る六代は、殿上の仙籍をば未だ赦されず
あらすじ:

 
今は昔、インドの祇園精舎(注1)にて修業されていたお釈迦様が亡くなられました。多くの人が悲しみに包まれて、その死を悼み、精舎の鐘を打ち鳴らしました。鐘の声は暫くは近くの木々や遠くの山々にこだましていましたが、やがては虚空に消えて行きました。

 数多の人に敬われ、慕われていた貴い御方でさえも、この鐘の音に似て、今世に留まることは許されず、あの世へ旅立たれたのです。
 
 貴方も、時を告げるお寺の鐘の音に、耳を傾けた事があるでしょう。初めは、お腹に
くような大きな音が、次第に小さくなって、遂には虚空に消えて行きます。

 貴方が今抱えている、喜び・怒り・哀しみ・楽しみ、これら総てが、実はこの鐘の音と同じなのです。どんな大きな喜びも、又、哀しみも、そして、今ここに生きている貴方さえも、時の流れと共に、やがては、消えゆく運命にあります。

 かように、地上にある総てのものが、同じ所に留まることは許されず、時と共に流されて行く果敢ない運命を背負っているのです。これを
諸行無常(注2)と申します。

 
 沙羅双樹は、夏の朝早く清らかな白い(注3)を咲かせますが、夕方にはそのもあせて、やがて散ってしまいます。どんなに富みえたも、この沙羅の花に似て、えて行くのがこの世の道なのです。

 如何にり昂ぶりしも、久しくその地位を保てる訳では有りません。いずれは誰かに打ち負かされるのが、この世の定めです。ただ、春の夜の夢の如くに。

 また、人の迷惑も顧みず、我が世の春を謳歌せし猛き人も、永遠には生きられないのです。時の流れに吹き払われて、遂には滅んで行きます。ひとえに風に吹かれる塵と同じ様に。

 遠く異朝(中国の事)の歴史を尋ねると、その例がたくさんあります。

 例えば、秦の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁の朱い(しゅい)、唐の禄山(ろくさん)、これらの者は
(注4)、舊主(注5)・先皇の政(まつりごと)にも従わず、諫言(注6)にも耳を貸さずに、天下が乱れて庶民が困窮しているのも省みないで、我が身の栄華を極め、やがて、滅んでいった者達です。
 
 また、近く本朝(日本)を窺がうに、承平の平将門・天慶の藤原純友
(承平・天慶の両乱参照)、九州の反逆者源の義親(注7)、平治の乱の大納言信頼(平治の乱参照)、これらは、奢れる事・猛き心も、皆とりどりでありました。

  が、間近くは、六波羅の入道・前の太政大臣の朝臣清盛
(注8)と申される人の有様こそ、伝え聞くところによると、心にも言葉にも言い及びません。

  その先祖を尋ねますと、桓武天皇の第五の皇子、一品式部卿
(いっぽんしきぶきょう)(注9)・葛原(かずはら)の親王から9代にあたる子孫、讃岐守正盛の孫、刑部卿忠盛(注10)の長男ということです。

 かの親王・高見王は無位無官にて失せられました。その御子の 高望王
(たかもちおう)の時、はじめて”平”の姓を賜わり、上総介(かずさのすけ・千葉県を治める役所の次官)になって、王家から人臣に連なり(皇室から離れて一般人になること)、国香から正盛に至る六代までは、諸国の受領(ずりょう・地方の長官)を勤めていましたが、殿上人(注11)の仲間に入ることは許されませんでした。(平家家系図参照)


 
 (注1)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・・・インドの信者が、釈迦のために作った寺。
 
(注2)諸行無常(しょぎょうむじょう)・・・仏教の経典の ”諸行無常、是生滅法、生滅々巳、寂滅為楽” から取られた文句。意味する所は、”この世の総ての事物は、常に移り行くものである”
 
(注3)沙羅双樹(しゃらそうじゅ)・・・・・釈迦入滅の時、精舎の4隅に生える、各2本の娑羅に咲く純白の花がことごとく散って、その身を包んだと言われています。日本には自生せず、花が似ている夏椿で代用しています。いわゆる”一日花”で、朝に咲き、夕べに散ります。兵庫県北区の念仏寺・京都の東林院等の沙羅が有名です。 
 (注4) ・秦の趙高(ちょうこう)・・・前3世紀・中国を統一して、蓁の国を作った始皇帝に仕えた高官。しかし、帝が崩じると、後継者となるべき帝の嫡子を排斥し、己が自由に操れる末子を皇位につけて、圧政を施した結果、秦の崩壊を招きました。
      ・漢の王莽(おうもう)
・・・・・1世紀・中国・漢の時代、幼帝に外戚である事を利用して、これを操り、遂には幼帝を殺めて、自ら新の国を樹立、皇位に就きました。
      ・梁の朱い
・・・・・・・・6世紀・中国・六朝の時代、書画の文人を輩出した、梁の国の武帝に取り入り、実権を握ろうとして反乱をを企て、発覚して誅されました。
      ・唐の禄山(ろくさん)
・・・通常は安禄山と言います。唐の玄宗皇帝の時代、地方豪族であった安禄山は、皇帝が傾城・楊貴妃に夢中になっている隙を狙って、反乱を起こし、皇帝を長安から追い出して、自ら大燕を作り国王に納まりましたが、内乱を起こして、殺されました。
 
(注5) 舊主(きゅうしゅ)・・・昔仕えた主人。
 (注6) 諫言(かんげん)・・・諌め諭すこと。忠告すること。
 (注7 源 義親(よしちか)・・・・・・八幡太郎義家の子、隠岐に流刑となったが、出雲で反乱を起こし、九州に逃れました。これを鎮めたのが清盛の祖父・平正盛です。この戦いを契機に、それまで優位にあった源氏の勢力は次第に衰えて、平家が力を伸ばし始めました。正盛は、この乱を鎮める事によって、平家隆盛の礎を築いたのです。関東で勇名を馳せ、数多の武勇伝を残した義家も、これを憂いて、失意の内に亡くなりました。
 (注8) 朝臣(あそん)・・・平安時代、位が三位以上の人に付ける尊称。
 (注9) 式部卿(しきぶきょう)・・・朝廷の儀式・六位以下の者の勤務評定・官位の授与・大学の運営を司る役所の長官。 
 
(注10) 刑部卿(ぎょうぶきょう)・・・刑罰・訴訟を司る役所(刑部省)の長官。
 (注11)殿上人(でんじょうにん)・・・紫寝殿、清涼殿など御所の建物へ上る事の出来る身分の人。
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